西クルディスタンはどうしているか シリア「蜂起」の背後で(前)

クルディスタン(クルド人の土地)がおもにトルコ、イラク、イラン、シリアの各領土に分割されていることはよく知られているが、西クルディスタン=シリア内クルドについては、日本語で読める研究や報道がほとんどない。『クルド人とクルディスタン』(中川喜与志、南方新社)、『クルディスタン=多国間植民地』(イスマイル・ベシクチ、つげ書房)、『クルド人のまち イランに暮らす国なき民』(松浦範子、新泉社)などからは、クルド問題全体や、トルコ、イラン、イラクでのクルドの歴史を知ることはできるが、西クルディスタンだけが抜けている。(ウェブ上ではいくつか日本語のニュース記事紹介サイトがあるが、それは追って随所で紹介する。)

そんななか、最近のシリア情勢との関連で「シリア反体制派 クルド人と連携協議」(毎日、4月18日)といった、断片的な情報だけが流れてくるようになった。一見すると、シリアの反体制派はクルド人を受け入れているように思えるが、しかし実際にはそのような単純な話ではない。

最近、西クルディスタンの現状にかんするいくつかの記事を見つけたので、それらを翻訳・紹介したい。バース党政権のみならず現在の「反体制」勢力にたいしてもクルド人が周縁化されていることや、現在の情勢にたいしてクルド人がとっている立場を見ることは、シリアでいま起きていることや、帝国主義の一般的問題についても、多くのことを考えさせてくれると思う。

1. 西クルディスタン(シリア国内)小史

この節は以下記事のうち »Geschichte des Konflikts« の節の翻訳、ただし段落分けを細かくした。 Nikolaus Brauns, Kampf um Selbstbestimmung. Hintergrund: Syriens Kurden kommt eine Schlüsselrolle für die Zukunft des vom Bürgerkrieg zerrissenen Landes zu. Am 4 Mai 2012, in der Jungewelt. 関連記事として次も参照。「西クルディスタン(シリア)の歴史と現状」、『クルド人問題研究』より)

今日のシリアの状況は、第一次世界大戦期の帝国主義政策にその根をもっている。シリアとトルコの国境は、1916年のサイクス=ピコ協定にもとづく、フランスとアメリカによる中東の重要な諸地域の分割にさかのぼる。この国境は1920年代、当時のフランスの委任統治権力によって、クルド人の生活圏のただなかに引かれた。20年代にはじまった強制的なトルコ化のために、一連のクルド部族がトルコからフランスの委任統治領へと逃げ込む。軍政当局はかれらを、新たに建設された二つの都市ハサカ(Al-Hasaka)とカミシュリ(Al-Qamischli)に住まわせた。1930年代にはクルド民族統一運動ホイブン(Xoybûn=自治、自活)の影響で、アルジャジーラ地方〔シリア内〕で自治運動が起こった。1946年にはフランス軍の撤退をへてシリアが独立したが、自治権は確定されなかった。1957年にはクルド民族主義者とシリア共産党の初期メンバーとによってシリア・クルド民主党(KDPS)が設立される。同党は、当初は反帝国主義を明確にし、また統一クルディスタンに加入していた。

隣接するイラクでのムッラー・ムスタファ・バルザーニーに率いられたクルド人パルチザン闘争を目にして、シリアの政治家たちは「分離主義運動」の拡大を恐れていた。1962年10月の臨時人口調査のあと、隣国から移入してきたとされた約12万のクルド人が、大統領通達によって市民権を剥奪される。市民権を奪われた者とその子孫は最大22万5000人と見積もられているが、かれらは「無国籍者」として、公共の職業に就くことも、最低生活食料の給付を受けることも、不動産や生産手段を所有することも、国外に旅行することもできなくなった。1963年にはKDPSが、封建的な大土地所有者の政党であるという言いがかりで禁止される。バース党のハサカ市公安局長ムハンマド・タラブ・ヒラール将軍は、ある報告書において、反ユダヤ主義的な語調で「ユダヤ人とクルド人は同類だ」と警告している。将軍が要求したのは、クルド地域の意図的な経済的放置とそれに並行したアラブ人の入植によって、国内からクルド人を追放することであった。これに対応してシリア政府は、1973年より、トルコ国境沿いへのアラブ人2万5000家族の入植による「アラブ人地帯」の建設に着手。ハーフィズ・アル=アサド(1971年から2000年まで大統領)のもとで、アラブ・ナショナリズムは「シリア・アラブ共和国」の名のもとに憲法上の保護を受け、クルド語の公的使用は政府通達によって有罪化、さらに1998年には200以上の村が改名された。

だが〔ハーフィズ・〕アサドは同時に、対外政策の観点から、トルコやイラクのクルド人政党を支援した。トルコ国家とたたかうクルド労働党(PKK)を、バース党政権は1980年から支援を続けてきた。同党の党首アブドゥッラー・オジャランはダマスカスで生活し、その党はシリア軍駐留下のレバノン・ベッカー高原に教練キャンプをもっていた。トルコとシリアのあいだでは、地中海地方のハタイをめぐる領土紛争や、トルコのダムによってチグリス河・ユーフラテス河における水路が脅かされるといった問題が起きていたので、PKKはトルコにたいするシリアの切り札として役立った。

トルコにたいするシリア内クルド人の民族的奮闘を誘導するために、バース党政権はシリア内クルド人がPKKに加わるよう本格的に推進した。トルコの諜報部の分析によれば、1990年代にはかれらは〔PKKの〕ゲリラ闘士の4分の1を占めていたという。しかしながら、アンカラ政府が1998年10月に公然と戦争の脅しをかけ、国境の戦車と地中海のNATO戦艦に臨戦態勢をとらせてからは、ダマスカスは圧力に耐えることができなくなった。オジャランは長く暮らした受入国を後にしなければならなかった。1999年2月、トルコの諜報部員によって、ケニアからマルマラ海のイムラリ監獄島に連行され、かれの逃亡は終わる。アダナ合意において、いまやシリアはPKKをテロ組織として認め、シリア領土内でのその活動を阻止する義務を負った。結果として、PKKのメンバーたちはトルコに引き渡された。

2003年のはじめに創設された、シリア内クルド人によるPKKの姉妹組織「民主統一党」(PYD)は、この上なくきびしい迫害を受けた。社会民主主義的傾向をもつクルド統一党 Yekiti のような他の党は、そこにできた空白を埋め、しだいに大きな民族的権利を訴えるようになる。サダム・フセイン政権の倒壊後にアメリカの支援で北イラクに作られたクルド人自治区の存在に、シリアのクルド人は勇気づけられた。サッカーの Fatwa チームのアラブ・ナショナリスト的なファンがジャジーラのファンのクルド人に暴行をしたことをきっかけに、2004年3月に〔シリアの〕カーミシュリーで蜂起が引き起こされた。そのさいに治安当局によって30人以上のクルド人が殺されたが、これは「クルド人の覚醒」として歴史に記憶されている。つづく数年間にクルド人の抗議がいくつも起こったが、治安当局の攻撃を受け、活動家たちは連行され、拷問を受け、死に至っている。

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