すでに行われてきた解釈改憲への反対は? 「日韓平和団体共同宣言」に寄せて

4月下旬のオバマ訪日・訪韓にあわせて、「日韓ネット」が「日韓平和団体共同宣言」への賛同を募っている(日韓ネットのブログにはまだアップされていないので、転載されているブログにリンクしておく)。

オバマ訪日・訪韓に対する日韓平和団体共同宣言への団体賛同を

いくつかの論点においては、筆者は宣言に賛同する。

今回のオバマ来訪が、「アジア地域への米国の介入と関与」、「米国中心の覇権的な軍事政策」および「中国や北朝鮮に対する締め付け」の強化を目的としているという指摘は、そのとおりであろう。
「北朝鮮の脅威」、「領土問題」、「中国の台頭に対する牽制」などを口実とした、「アジア駐留の米軍戦力の増強」および「日米韓ならびに日米豪の戦略的同盟強化」の推進、それにともなう、日本の集団的自衛権の行使容認、さらには日韓の「軍事情報に関する包括的保護協定」(GSOMIA)やMD協力の締結、などを後押しすることによって、米日韓が「事実上のアジア版NATO、軍事同盟システムの完成」に向けた協調を模索しているという見解は、筆者も共有するところだ。
そうした動きに積極的に呼応する日韓の政権にたいして、批判を強めねばならないと、筆者も強く感じる。

さて問題は、この「アジア版NATO」に反対する力を、どのように作っていくべきかということだ。

「日韓ネット」が代表するような、下からの日韓連帯の路線は、必要ではあるかもしれないが、十分条件ではまったくないというのが、筆者の考えである。
それぞれの国や地域の歴史的背景を踏まえない、または不十分にしか踏まえない、抽象的な国際主義では、かたちはあっても中身がなく、それゆえに反戦平和の実質的な力にはなりえないだろう。
そして、この「共同宣言」は(というより最近の日本における反解釈改憲の議論の大半は)、「アジア版NATO」に反対する日本人としての歴史的立場を、じゅうぶんに深めていないように感じる。

宣言では米日韓各政府への要求が掲げられているが、そのうち、日本政府への要求はひとつ。
「集団的自衛権行使容認と憲法改悪の立場を撤回すること」である。
だがこれは、「アジア版NATO」によって再確立されようとしている、米国およびその同盟国による覇権主義を批判する立場として、まったく十分ではない。

日本国内からの反対運動は、とりわけ日本政府の政策や姿勢を問題にしなければならないが、当の日本は、かたちの上での「平和憲法」にもかかわらず、自衛隊という名において、この「アジア版NATO」のなかでも有数の陸・海・空の軍事力をもっている。
戦争放棄・戦力不保持を掲げた憲法9条と矛盾する、強大な戦争遂行を保持さらには増強しているということ自体が、そもそも問題であり、ましてや「自衛隊」の国外展開などありえないというのが、この国における反戦運動のそもそもの構えであった(あるべきであった)はずだ。
この立場に、この国における集団的自衛権や「アジア版NATO」への反対運動を、しっかりと立脚させねばならないというのが、筆者の主張である。

つぎのように反論されるかもしれない。

「憲法解釈を変え、集団的自衛権を行使できる状態にしなければ、日本は「アジア版NATO」に参加できないのだから、解釈改憲反対を焦点とするのは正しい」
「憲法上の戦力不保持と自衛隊との関係に話を広げることは、論点を拡散させることになり、現状では逆効果だ」

あるいは、
「なしくずし解釈改憲を食い止めるためには、集団的自衛権への反対だけで結集点を作るしかない」
などと、「現実主義的」な観点から、主張する人もいるだろう。

しかしながら、そのような安易な大同団結路線こそが、むしろ、以下のような現実を取り違えてはいないだろうか。

たしかに現行の「自衛」解釈は、日本軍(自衛隊)の国外展開において、ある程度の足かせにはなっているだろう。
しかしながら、それはあくまで「ある程度」でしかない。
言うまでもなく、湾岸戦争以来、PKO、災害援助、さらには対テロ戦争の枠組で、自衛隊の海外派兵はつぎつぎに既成事実化され、またそれを可能とする法改定が進められている。
この動きにたいして、現行の「自衛」解釈はまったく制限とならなかった(あるいは少なくとも、運動をつうじて制限として機能させることができなかった)というのが、歴史的事実である。

だが「アジア版NATO」成立の危険性という文脈において、より注目すべきは、近年とくに活発化している、日本と他国との合同軍事演習ではないかと思われる。
合同演習というと、日米同盟を口実とした米国との合同訓練(1980年からの環太平洋合同演習への参加に始まる)がよく思い浮かべられるだろうが、しかし2010年ごろからは、インド、タイ、インドネシア、さらには韓国など、アジア諸国との合同演習が進められている。
とりわけ昨年10月8日からの3日間には、韓米日の海軍による合同軍事訓練が、朝鮮半島南方海域で実施されたが、これなど朝鮮民主主義人民共和国への露骨な威嚇だ。
さらには、例年3月から4月に行なわれている韓米の合同演習だが、今年のそれは「93年以降で最大規模」であったのみならず、沖縄の駐日米軍基地から多数のオスプレイがこの演習に参加する予定だ(現時点では「参加した」)と、韓国メディアで報じられた(しかも同メディアの日本語版には翻訳されなかった)。
※ このことは、近年の日韓情勢を批判的に分析している、以下のブログで取り上げられている。

Super Games Work Shop Entertainment 3月31日から4月7日まで行われる韓米合同軍事訓練について(2014.3.31)

こうした動きから言えるのは、上の宣言で仮にそう呼ばれている「アジア版NATO」が、すでに実質的には、かなりの程度整えられてしまっているということだ。

合同軍事訓練への日本参加の活発化が示しているように、韓国も含めたほとんどの近隣諸国の政権は、米国の覇権主義を補うかたちで日本軍(自衛隊)が活動することを、すでに許容してしまっている。
もちろん日本への警戒心がゼロになったわけではないだろうが、米国覇権下での協調への利害関心が、そのような警戒心より強くなっていることは、間違いない。

こうした現状を前に、「日本の軍国主義にたいする隣国の抵抗感は薄れているようだから、自衛隊の存在そのものは許容していいのではないか」と立場を後退させることもまた、ひとつの「現実主義」であるとは言えよう。
だがそういう姿勢では、日本が「アジア版NATO」に積極加担することを食い止めることなど、できるはずがない。
日本が「アジア版NATO」の主要な構成要素として受け入れられつつあるにもかかわらず、集団的自衛権に向けた解釈改憲には踏み切れないだろうという考えは、それこそ非現実的である。

自国の対アジア侵略と戦争とが誤りだったという見解に立つならば、侵略主義や覇権主義の道具であるところの軍事力を自国がもつことに、原則的に反対しなければならない。
過去の反省と自衛隊の保持とは両立しないという立場を、保持しなければならない。
そのような立場から日本の反戦運動や社会運動がどんどん遠ざかっていった結果として、現在がある。

だとすれば、とりあえず現状を食い止めるために人々を動員しやすい「低い敷居」を設定することではなくて、この国における反戦平和の原理を歴史的視点から作りなおし、これに運動を位置づけなおすことが、むしろ急務であるはずだ。
言い換えれば、自衛隊の存在こそが解釈改憲であるという事実認識に、この国の反戦運動の足場を置きなおすことである。

同じことは歴史認識問題についても言えるはずだ。
つまり、この問題をめぐる後退につぐ後退を断ち切るためには、「河野談話の継承」を掲げるのではなく、日本の戦時性奴隷制度や、植民地支配下での奴隷的労働、さまざまな戦時動員にかんする、徹底的な究明と個人補償を、諸外国の非難からではなく、清算されざる日本の侵略責任に主体的に向き合うという観点から、要求することである。

したがって、今回のオバマ訪日にかんして、日本の反戦運動が自国の政府にたいして掲げるべき要求は、以下である。

憲法9条が掲げている戦争放棄、戦力不保持と矛盾する、東アジア有数の軍事力としての自衛隊を解体すること。

そのような自衛隊の存在を許してきた、過去のすべての憲法解釈を、日本国家は撤回すること。

大日本帝国として行った一切の侵略行為の正当化を撤回し、戦時性奴隷制度(「慰安婦」動員)をはじめとする、植民地や占領地の出身者にたいする動員や強制労働の調査に取り組み、被害者への個人補償に応じること。

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クルド運動における二つの路線と中東介入

前記事では、米国のシリアへの攻撃計画がシリア内のクルド勢力をも標的にしているという報道を翻訳した。この点だけでも、軍事介入がシリアの「民主化」や多元的社会に寄与するのではなく、それに害をなすものでしかないことが分かる。端的に言えば、米日欧中心の帝国主義秩序にとって邪魔な存在は何であれ、米国は機会と適当な口実さえあれば殲滅しようとするということが、改めて確認されたわけだ。

この記事では、先の翻訳記事に補足を加えたうえで、クルド運動の二つの路線についてもコメントを加えようと思う。

1. 西クルディスタンの自治区について

西クルディスタン(シリア内クルド地域)での自治運動については、昨年に紹介した。

「西クルディスタンはどうしているか シリア「蜂起」の背後で」 (前) (中) (後)

「後編」で書いたように、2012年7月19日以降に、シリア政府軍がシリア北部のクルド地域から撤退し、コバネ、デレク、アムーデ、エフリン等がクルドの勢力下に置かれた。その後、8月2日にはNCC(クルド国民調整委員会)が、西クルディスタンの諸政党・諸団体からなる「民主的変革のための国民調整委員会」として再組織される(英語ウェブサイトウィキペディア英語記事を参照)。クルド民主統一党(PYD)は、自治区の包括的運動ネットワーク「民主的共同体運動」(Tev-Dem)の政治部門として位置づけられ、一部の政治活動家に留まらない、住民の文化的・社会的な動員が図られている(北沢洋子「シリアのクルド人」2013年1月31日、 Rozh Ahmad, The Kurdish Rebellion in Syria: Toward Irreversible Liberation, 23 Jan. 2013)。また選挙も行われ、「西クルディスタン人民会議」(WKPC)と名づけられた議会および対応する行政機能が形成されている。自由シリア軍(FSA)やヌスラ戦線からの攻撃を受けるも、クルドの「人民防衛部隊」(YPG)は今日まで自治区を守りつづけている。

FSAやジハード主義者、それに諸外国の「反体制派支持者」たち(とくに米国やトルコ)は、アサド政権を支援しているとか、アサド政権と密約したとか、そのような口実でクルド人を批判している。だが実際には、アサド政権にも、あるいはクルドの権利を認めようとしない反体制派にも、かれらはつかないという、ただそれだけのことである。

他方、自治区がどこまで「自治」を達成しているのかについては、先に挙げた北沢洋子の記事に読める(ただし北沢の記事は、やはり前掲のMonthly Reviewに載ったロジュ・アフマド(Ahmad)の記事に、大部分依拠しているようだ)。

クルドの自治区は完全に独立しているわけではない。現在なお、アサド政権から予算を受け取っているし、また公務員はダマスカスから給料を受け取っている。そのことが、「PYDとTev-Demはアサドの協力者」と非難される理由になっている。またPYDは、Derekのように政府軍と向き合っている地域でも、軍事攻撃を避けている。このことから、アサド政権とPYDの間に、密約があるのではないかと、推測がある。政府軍が、北のクルド人自治区に戦線を広げることを避けているのは、南に軍事勢力を集中出来るからだ、と推測されている。Derek市長のAlliasは「我々は、流血を避けたいと思っている。しかし、そのことが協力者だとは言えない。クルド人は政府軍に無慈悲に弾圧された過去を決して忘れない。多くのクルド人が、アサドの拘置所で拷問され、殺されたことを決して忘れない。また崩壊寸前の政権に協力するほど愚かではない」と述べた。

つまり、自治化した地区においても、地方行政の施設やスタッフが引き継がれているということだ。西クルディスタンの目標が分離独立ではなく自治である以上、これはなんら不思議なことではない。ところで前記事では、「ペンタゴン」が政府とクルド勢力に「共同で」打ち立てられた軍事施設を攻撃すると宣言しているくだりがあるが、これも「ペンタゴン」がそうみなすところの「共同」施設にすぎず、実際には、自治化した地域においてクルド勢力に引き継がれた施設のことを言っているのに過ぎないのではないかと推測される。管見のかぎり、政府とクルド勢力が軍事施設を「共同で打ち立てた」という情報は出所不明である。

昨年8月2日、PYDの外務局は、国際社会に西クルディスタンの自治への支援を求める声明を発している。この声明では、「自由で民主的な、多元的に統一されたシリア」(a free democratic and plural united Syria)の建設に貢献することを宣言し、「シリアのすべての革命家」への「安全な避難所」を提供しうると述べられていた。しかしながら、これは国際社会に無視され、とくに米国とトルコからは「分離主義」または「PKKのテロリスト」のたわごととして、敵意をもって迎えられている(アフマド記事)。この見解について指摘すべきことは三つある。第一に、西クルディスタンの運動とPKKとの協力には歴史的背景があること。第二に、西クルディスタンの運動は分離主義ではないこと。そして第三に、「自由で民主的な、多元的に統一された」社会を真に目指しているのは西クルディスタンであって、トルコや米国が支援している宗派主義的な武装勢力ではないということ。昨年8月3日にカミシュリでデモ主催者たちが訴えたのは、「シリアのクルド地域におけるクルド人、アラブ人、ムスリム、キリスト教徒、アルメニア人、アッシリア人の兄弟愛と同志意識」であり、かれらが「クルド民族」の名において非難したのは「宗派主義的な根拠にもとづく戦争」であった。そのように宣言して自治化した西クルディスタンが、なによりまずFSAから攻撃を受けたという事実は、シリアの「民主主義」に向けた蜂起という大義の空疎さを物語っている。

2. シリア反体制派について

ところで、ヌスラ戦線のテロ活動が突出するようになってから、シリアの反体制運動がテロ集団にジャックされてしまったと、最近はよく言われているらしい。しかしながらFSAが、少なくともその一部が、最初から市民へのテロ行為に訴えていたことは、筆者もすでに指摘したとおりである。FSAが欧米やトルコ、イスラエル、湾岸諸国から援助を受けていることも公然たる事実だ。

アサド政権側の攻撃だけをあげつらい、最近の化学兵器の件のように、誰の仕業かも判明していないことまで全面的に政権側のせいにする、諸国政府やマスメディア。これがシリア政権転覆という目的先にありきのキャンペーンでなくて、一体何なのか。米国の爆撃と過激主義者のテロ攻撃で政権が崩れたあかつきには、イラクやリビアと同様、シリアもまた宗派対立の舞台となり、形式的な代議民主制のもと、バアス党政権下で保証されていた各種の社会的権利も抹消され、シリア人民はむき出しの暴力により沈黙と困窮を(少なくとも現政権よりも悪い状態を)強いられることになるだろう。

シリアの土着的、民衆的な革新勢力と連帯したいと望む者は、西クルディスタンと反体制運動との関係をよく見るべきだ。すでに昨年に解説し、上でも指摘したことと重複するが、シリア国民会議(と言ってもイスタンブールに置かれた、国内に根をもたない亡命者の寄り合いだが)はクルドの自治権を否定している、それもあって、西クルディスタンは政権にも反体制にもつかない、独立した路線を選んでいる。そもそも、自治宣言した西クルディスタンを攻撃しているのは、政府軍よりも、(前述のとおり)反体制勢力である。いまだ自治化の準備段階であった昨年6月から、すでにFSAは西クルディスタンに攻撃をしかけてきており、10月にはシェイフ・マグスド(Sheikh Maqsood)地区など自治区の複数地域でFSAとの大きな衝突が起きているし、その後も自治区は、FSAやヌスラ戦線の攻撃にさらされている。

こうした問題を無視して、アサドだけを悪魔化するのは、民衆的な国際連帯を目指す者がすべきことではまったくない。

3. クルド民族運動の二つの路線

ところで、西クルディスタンの自治運動について気づくのは、南クルディスタン(イラク)の自治政府との違いである。自治化への経緯、自治運動としての目標、これらにおいて両者は対照的だ。昨年の記事で筆者は、南クルディスタンの路線を「現実主義的」と、西クルディスタンの路線を「民主的・社会的」と形容し、このように書いた。

南クルディスタン自治政府の、とりわけマスウド・バルザーニーのスタンスには、現実主義的あるいは機会便乗的な傾向があるように見える。そもそも自治区の獲得が、アメリカがイラクで行った帝国主義戦争の副産物でしかなかった以上、自治政府がアメリカをはじめとする帝国主義陣営から真に独立した戦略をとることは、ほとんど考えられない。現実主義の問題は、それが真に現実的かどうかというよりも、それがつまるところ政治主義的で、より根本的な変革や権利拡大をむしろ妨げうるという点にある。なるほどバルザーニーの諸政策が、クルド自治区の何らかの利益を代弁しようとしていることは間違いない。だがそれは、開発主義あるいは利益誘導(欧米資本の誘致)であり、しかもその専断的なやりかたにたいする批判が強まっている。南クルディスタンにおいて支配的な現実主義や便乗主義が、どの程度の影響を西クルディスタンに及ぼしてきたか、また及ぼしうるかについては定かではないが、いずれにせよPYDとKNC〔南クルディスタンに本部を置く西クルディスタン解放勢力のひとつ〕の統一ないし連合においては、安易な現実主義路線は避けられるべきだろう。

他方、PYDおよびPKKの基本アジェンダが自治および連邦制にあることは……見てきたとおりである。PKKが2000年代にこのような路線に転換したことには、国家独立そのものが難しいという現実主義的な理由も、もちろんあるだろう。だが連邦制の構想そのものは、機会主義的な戦略ではまったくない。獄中のPKK党首オジャランの獄中出版をはじめとして、北クルディスタンでは、クルディスタンの民主的・社会的な自治の条件や方途にかんする議論が積み重ねられており、その実現のための北クルディスタンの諸団体の包括組織である「民主的社会会議」(Democratic Society Congress)が、2011年に立ち上げられるところまで来ている。そしていま、南クルディスタンではなく西クルディスタンで、そうした自治構想を実現していく可能性が、不安定であれ生じつつある。この構想が実際にはどのように、またどこまで実現されうるのかは、安易に予想でることではない。だが少なくとも、欧米および(クルド以外の)中東諸国家の影響を排した自治化を実際に進めている点において、これまでのところPYDは一貫している。

その後においても、西クルディスタンにおける「民主的・社会的路線」の優位は維持されているようだ。北沢 (が参考にしているアフマド)もこのように報告している。

PYDは、これまでのクルド人政党のように、クルド人地域全体のすべての様相を直接コントロールすると言うのではなく、むしろ幅広いネットワークである「Tevgara Jivaka Democratic(民主的共同体運動Tev-Dem)」の政治部門に過ぎないと考えている。Tev-Demは「民主的社会運動」だと位置付けている。PYDは、人びとを政治的に組織するが、一方Tev-Demは、地域の青年、女性、労組、クルド語学校などのセンターに依拠して、人びとを文化的に動員している。……上記の2つの組織の関係について、PYDの共同代表であるAsia Abdullaは、「党がシリアのクルディスタン地域の民主革命を政治的にリードし、一方Tev-Demは社会運動を組織する。我々は民主的な社会を下から構築する」と解説している。

クルド人地帯には、Tev-Dem運動とPYD/WKPCの他に、いくらかの少数政党がある。15団体が集まって、「クルド国民評議会(KNC)」を名乗っている。しかし、KNCは現場との関係がない。にもかかわらず、KNCはTev-DemやPYD/WKPCに対抗する勢力だと自認している。なぜKNCが弱いかと言うと、参加している政党が分裂を繰り返していることにある。例えば、KNCの有力メンバーである「シリア・クルド民主党(al Party)」は、最も古いクルドの右翼政党だが、現在は、3つに分裂し、それぞれ同じ名前を名乗っている。……PYD/WKPCとKNCとの間には、大きな違いがある。KNCは、ネオ・リベラル路線をとっており、その代表は、国外で米政府の代表やトルコ当局と会合している。一方、PYD/ WKPCの政治哲学は、トルコのPKKの創設者Abdulla Ocalanのイデオロギーに依拠している。しかしPYDがPKKのシリア支部にすぎないという米・トルコ政府の中傷に反対している。

以上を踏まえて、より直截に、クルド自治運動内の右派路線と左派路線という表現を使ってしまってもいいように思える。PYDが主導する、近年のPKK型の路線においては、政治的な自治化と、クルド人民の下からの(政治的のみならず)社会的・文化的な組織化とが、平行して進められている。他方、南クルディスタン型の、KNC(クルド国民会議、南クルディスタンに本部を置く)が実践している路線においては、「米政府の代表やトルコ当局との会合」が、上からの政治と利益誘導が優先される。

すこし脇道にそれるが、先月21日に行われた南クルディスタンの議会選挙(1991年の蜂起のさいに行われた選挙以来、自治区で初のもの)では、2009年にクルディスタン愛国党(PUK)から分立したゴラン(Gorran、変革党)が、PUKを追い抜き、第二党へと浮上した(Kamal Chomani, Iraqi Kurdistan’s historic election, 29 Sep. 2013)。クルディスタン民主党(KDP)は第一党の地位を守ったが、KDPとPUKが自治区の中枢を分有する二頭体制への異論が、相当に高まってきたということだ。KDPおよびPUKは、1991年の蜂起以来、内紛状態にあったのを、1998年にワシントンで仲介してもらって以来、イラク戦争以降は米国のバックアップで実効的な自治区の設立にまでいたった。しかしながら、マスウド・バルザーニーのもとで進められている、外国資本の大々的な誘致による開発優先政策の結果、官職・要職についた両党人士の利権癒着、腐敗が進行している(もちろん先進諸国は自治区との投資・パートナーシップ作りに熱を上げており、たとえば日本では平沼赳夫を会長とする「日本クルド友好協会」がそうした動きの代表である)。この状況への下からの不満が高まっており、ゴランはこの不満を引き受けるかたちで勢力を伸ばしているのだ。今後、南クルディスタンの自治区は、さらなる民主的改革へと進んでいくかもしれないし、近い未来にはそうならないかもしれない。外国資本が大規模に投入されている以上、現在の体制は先進諸国からの大きなバックアップを受けられるだろうが、逆に腐敗が目にあまるようになれば、諸外国は体制ではなく変革勢力に支持を転じるかもしれない。いずれにせよ、米国を中心とした先進資本主義・帝国主義陣営の支えを頼みにした「自治」の限界が、南クルディスタンでは、じょじょにであれ露呈されつつあるように見える。

西クルディスタンの自治区では、下からの社会的・文化的な組織化を最重視するPYD-PKKの路線が、主導的でありつづけている。これにたいして、米国やトルコなど(要するに、NATO側で中東に利害を有する国)は、またそれに支援されたシリア「民主化」「反体制」勢力は、無視、悪宣伝、攻撃をもって応えてきた。帝国主義的な「民主主義」と、下からの民衆的、自律的な民主主義との対比が、これほど鮮明に現れている事例は、なかなかないように思える。これはシリア「反体制」勢力支持派にはとても都合の悪いことであるから、西クルディスタンがイスラム過激派に攻撃されている報道を見ても「アサドとの密約」の兆候としてしか読まない、ある薬莢の臭いの漂うジャーナリストのような反応もでてくるのだろう。他方、クルド人ジャーナリストの中でも、米国のシリア軍事介入が西クルディスタンの利益になる、またはなる可能性があると考える手合いはいる(たとえば Sabah Salih, How Could an American-Led Attack on Syria Benefit the Kurdish Cause? 30 Aug. 2013)。こうした声は、クルド運動の全体を代弁するものではなく、クルド運動にも左右の分岐があるということの例証として捉えるべきだろう。筆者は西クルディスタンの路線を支持する。

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【翻訳】トルコにおけるクルド人ハンガーストライキの背後で(後)

(同翻訳記事の後半部。前半はこちら。)

また前置きを。

昨年は「アラブの春」がもてはやされたが、チュニジアおよびエジプトでの体制転換は、(イスラエルおよびトルコを含む)NATO諸国および湾岸アラブ諸国の許容範囲に収められたし、リビアでの政権転覆は、これらの全面バックアップにより完遂された(同様のことがシリアで仕掛けられている最中である)。エジプトでは民衆的抗議が広がっているが、「西側」またはグローバル・ノースからは、昨年の「アラブの春」のときのような(異常なほどの)熱意のこもった注目は集まっていない。ムルシおよびイスラム同胞団は、本質的に反動的であり、サダトおよびムバラクの時代からの本質的転換を約束するものと見ることはできようもないのだが。

ただし、昨年にムバラク政権に反対したエジプト民衆そのものが反動的だということでは、もちろんない。サミール・アミンが強調しているように、エジプトでますます多くの被抑圧・被搾取人民がラディカルになっていっている。欧米および親欧米勢力にまわりを固められ、圧迫された「民主化」の局面を脱しうる推力が、エジプトにはいまも存在している。真の意味での「アラブの春」に連帯するならば、欧米に仕立て上げられたそれをではなく、そのような推力をこそ支持すべきだ。

いま北クルディスタンおよびトルコで起きているのも、いくつかの意味でエジプトでの現況と同じことなのだと、以下に翻訳した記事を読んで、あらためて気づく。ますます多くの被抑圧・被搾取民衆が政治的にアクティヴになり、ラディカルになっている点においてもそうだし、そのような変革へのダイナミクスが、トルコや他のNATO諸国にとって不都合であるという点においてもそうだ。それらは帝国主義・親帝国主義陣営が望んでいない「春」なのであり、またそれゆえに、真に「春」と呼ぶに値しうる。

北クルディスタンで先行して進められてきている「民主的連邦主義」または「民主的自治」の動きについても、なるべく早く紹介したい。

【以下翻訳】

(原文 Behind the Kurdish Hunger Strike in Turkey, by Jake Hess, in Merip: Middle East Research and Information Project, on 8 Nov. 2012

トルコにおけるクルド人ハンガーストライキの背後で

ジェイク・ヘス 中東研究・情報プロジェクト(MERIP) 2012年11月8日

前半

公正発展党(AKP)の対クルド戦略

実際、エルドアン首相は2007年以来、国営のクルド語テレビ放送や学校教育におけるクルド語の選択科目を導入するか、クルドの合法的な権利運動への弾圧を強化するかのあいだで、揺れ動いてきたように見える。しかしながら、これら二つの選択肢は矛盾どころか調和する。エルドアンは限定的な改革を進め、ときには懐柔的な声明を発しながら、それと並行して、大量のクルド人活動家を投獄してきた。それによってかれは、それまでクルド保守諸政党に投票してきたクルド人口にも支持基盤を広げつつ、クルド平和民主党(BDP)やクルディスタン労働党(PKK)を孤立させ、トルコ国家にとって好ましい政治的解決を呑む以外にはない状況へと、かれらを追い込もうとしてきた。

いまハンストを決行しているクルド人政治囚たちの多くは、2009年からの反KCKキャンペーンで逮捕されている。こうした人々は、基本的には、以上のようなクルド人運動の解体を狙う長期的計画のための人質である。かれらは、膨大な数の訴訟と、その主要な要求を拒否する政府を前にして、政府が体面を失って動かざるをえない状況を作るために、劇的な方法をとったのだった。

クルド共同体連合(KCK)のメンバー逮捕は、そしてハンガーストライキは、十年以上前からのなりゆきの、とりわけ、エルドアンのAKPとBDPとの対立の、結果である。発足直後の時期のAKPは、一般につぎのように見られていた。すなわち、「ケマル主義国家において脇に追いやられてきた」、イスラム主義、アナトリアのビジネスマンやトルコ人リベラルを含む「さまざまな宗派、民族、社会・政治勢力にはたらきかける、広範な民主的プラットフォームをなす」連合政党として(M. Hakan Yavuz, Secularism and Muslim Democracy in Turkey, Cambridge, 2009, p. xi.)。AKPの改革者としてのイメージと宗教的ルーツに、多くのクルド人が惹きつけられた。部分的にはクルド人の支持者たちのおかげで、AKPは創設後まもない2002年に議会の最大多数派となった。

AKPの政治の場への到達のために、BDPの選挙における成長は行き詰まり、そして後退した。その前身政党は、1995年から2002年にかけて、選挙ごとに票を伸ばしていたのだが。1995年、BDP(当時はHADEP)は、国民議会で4.2パーセントを得票しており、2002年には6.2パーセントにまで到達していた。だが2004年には5.1パーセントに下がり、2007年には、過去最低の4パーセントの票しか得られなかった。BDPが失った票は、AKPに流れた。クルディスタン、またはトルコ南東部のクルド人が多数派を占める地域で、AKPは2002年に32.5パーセントの票を占め、2007年には55パーセントを得たのだった(Taraf紙、2009年8月18日)。

実際、AKPがクルドの票をもっとも多く集め、BDPの得票がもっとも少なかった、2007年の選挙は、AKPの対クルド政策の重要な転機をなしている。その成果は印象的であったが、政権与党であるAKPは、二つの点において選挙結果を決定的に読み違え、それが今日の趨勢である抑圧と行き詰まりへとつながったように見える。

第一に、クルディスタンにおいて過半数の票を得たことで、クルディスタンでの支持を永続的なものとして当てにできると、AKPは判断したように思える。党指導者たちはしばしば、党内に75人のクルド人国会議員を擁していることを自慢し、自分たちがトルコのクルド人の「真の」代表者であるかのように振る舞っていた。2009年の選挙にさいして、BDPの伝統的な本拠地であるディヤルバクルやバトマンで勝利したいと、エルドアンが宣言したときには、この目標は達成できると信じていたようである。

ところが、このAKPの分析は、2007年の選挙を取り巻いていた特殊な状況を無視している。その年の4月、議会がAKPメンバーを首相に選出しようとすると、トルコ軍は介入の脅しをかけた。AKPのイスラム主義的な前身政党が1997年に追放されたときの「穏健なクーデター」や、軍によるトルコ民主主義の転覆の長い歴史が、思い出される。したがって、2007年選挙はある意味で、政治における軍の役割にかんする国民投票であった。軍の警告によって、ケマル主義的な共和国から排除された諸勢力の連合としてのAKPの初期の評判は、さらに強まった。そして多くのクルド人が、将軍の干渉に抗議の意志を示すために、AKPの側についた。それと同時に、AKPの慎重な自由化や、新たな憲法を起草する約束によって、一部のクルド人はAKPを、クルド問題の政治的解決への最大のチャンスであると見なした。したがって、2007年の選挙は、クルド運動の中心的要求がAKPのもとで実現されることへの期待を反映していたのであって、これらの目標の拒否や再考を意味していたわけではないのである。

AKPの第二の大きな計算違いは、第一のそれから派生したものだ。クルディスタンでの選挙結果をもって確固たる支持を得られたと勘違いしたために、AKPは2009年の地方選挙でも目覚ましい成果を期待し、BDPとの協力なしにクルド問題を解決できると考えた。BDPの得票率減少というもうひとつの選挙サイクルが、クルドの政治運動を弱めたことは、疑いようがない。政権党であるAKPの見立ては、こうであった。政治的な機運が自分たちの側にきているので、クルド運動は基盤を失うだろう。そして、獄中の数千のクルド人指導者たちは譲歩の交渉に入り、AKPはトルコのもっとも扱いにくい問題において独自の「解決」を強いることのできる地位に就くだろう。

AKPは正真正銘の抑圧と政治的孤立化との組み合わせにより、クルド運動を掘り崩す戦略に乗り出した。2007年、ディヤルバクルの検察庁は、KCKメンバー逮捕の第一波を正当化するために利用できる証拠を集め始めた。逮捕劇はまさに、2009年3月の地方選挙の2週間後に始まったのだった。2009年1月、政府は国内初のクルド後のみによるテレビチャンネルの放映を開始させた。3月の選挙の2、3週間前、クルド語の国営ラジオ放送局の計画を発表したさいに、アブドゥラー・ギュルは、クルドにかんする「良いこと」が起こるだろうと述べた。かれは「民主的開放」 をほのめかしたのである。そのころ、イラク・クルディスタンでは政府後援の「クルド人会議」が、2009年4月に予定されていた。この会議は、親トルコ的なクルドの人物に、PKKの武装解除を呼びかけさせることを目的としていた。これらは、選挙戦でBDPを負かすことができたとイスラム主義者たちが考えていたことを示している。

そのような皮相な政治的術策でクルドの選挙民を惹きつけようとしたそのときにも、AKPは国内西部で噴出するトルコ・ナショナリズムの流れにみずからを位置づけていた。米国の後援のもと、PKKにたいする軍事作戦は強化された。2008年11月、クルド都市のハッカリでの講演において、エルドアンは「ひとつの国民、ひとつの旗、ひとつの母国とひとつの国家体制」と語った。かれはクルド問題にたいして時代遅れの国家主義的・ナショナリスト的な手法をとったのである。同時にかれは、BDPがPKKを「テロリスト」として非難するまで、BDPとの会談を拒否すると述べた。それは、数百万のクルド人が、「テロリスト」の政治運動を支援しているか、少なくとも支持しているとして、侮辱する政策であった。クルド人がAKPを反国家政党ではなく国家政党だと見なすようになってきているという考えに、ほとんど疑いはもたれなかったのである。

結局、政府はどちらの方法においても成功しなかった。2009年の選挙でAKPは、期待していた勝利のかわりに、AKPは大きな後退をこうむったが、それにたいしてBDPは、その勢力下におかれる自治体の数を、以前の倍に近い100にまで増やした。「クルド会議」はぶしつけに取りやめとなったが、それは、AKPの内相ベシル・アタライ(Beşir Atalay)の要請を受けてのことだったようだ(Today’s Zaman紙、2009年4月19日)。ディヤルバクルの党施設でクルド人たちはBDPの歴史的勝利を祝った。

それでも政府は「民主的開放」を推進した。クルド問題を解決しPKKを解体するための計画として売り込まれたものの、その命運はもはや尽きている。政治的解決の可能性について率直に話し合うというエルドアンの決定は、当然ながら過去のものとして見なされた。ただしこの政策の主要な目的は、正真正銘の話し合いによる解決ではなく、数多くのクルド人活動家を逮捕しているさなかにも、控えめな改革を推進して、BDPとPKKの双方を孤立させることにあったが。当時のAKP副党首であったフセイン・チェリク(Hüseyin Çelik)は、まさにそう認めていたようである。AKPの先導がうまくいけば、BDPおよび超民族主義者である民族主義者行動党(MHP、トルコ民族主義、右翼)は「周辺的」な政党になるだろうと、かれはイスラム主義に共感的な日刊紙ザマンにたいしてコメントしていた(Zaman紙、2010年4月4日)。

2009年8月、オジャランはPKKにたいして、メンバーを「和平団」としてトルコに送り、PKKの政治的解決への取り組みを示すよう、指示を出した。数多くのクルド人が、祝いの集会で和平団を歓迎し、平和が近づいてくることを祈った。だが、この機会を捉えて、エルドアンのやり方は「テロリスト」を励ますと主張する者もいた。BDPの前身政党であるDTPが12月に最高裁で閉鎖されると、当初の多幸感は消し飛ばされた。まもなくPKKの代表団にたいする裁判がはじまり、逮捕されなかった者は2010年1月、北イラクにあるPKK本拠地へと戻った。

1980年軍事クーデター後に作成された憲法の2ダースにおよぶ修正をめぐる、2010年9月の国民投票は、「民主的開放」が復活するかもしれないという、つかの間の希望的観測を引き起こした。諸法案は圧倒的な票差で賛成を得たが、クルド人の大半は、BDPによるボイコットの呼びかけを支えた。BDPの呼びかけによれば、憲法修正は、民主的改革の復活ではなく、AKPの政権党としての地位を固めることを狙いとしていた。それ以来BDPは、クルド問題の解決における新たな市民憲法の起草の重要性を強調している。AKPがたびたび誓いを立ててきたにもかかわらず、議会の憲法委員会はわずかな進展しかもたらさなかった。

公衆の眼前でのこうした出来事と並行して、トルコ国家とPKKとの密談がおこなわれていた。だがそれは、2011年6月の議会選挙でBDPが大きな成果を収めた後、アンカラは会談を打ちきった。

対KCK作戦

「民主的開放」とトルコ国家・PKK間の会談は、対KCK作戦の陰で進められた。この作戦は、2009年選挙でのBDPの勝利の2週間後、PKKが新たに停戦を宣言してからわずか1日後にはじまっている。短期的には、トルコ政府は何千人もの逮捕者の身柄をもって、クルド問題にかんする交渉チップおよび大きな優位を得た。長期的には、1999年以降の新たなクルドの指令官級の解体が狙いであった。1999年は分水嶺と言える年であり、BDPの前身であるHADEPによるはじめて地方政府入り、トルコのEU加盟申請、PKKによるその後5年におよぶ停戦の宣言があった。

1990年代、クルド諸政党の少なくとも112人のメンバー、および数多くのジャーナリストや人権擁護者が、政府によって暗殺されている。だが、1999年からの楽感的で相対的に平和な時期、やはりトルコのEU加盟に向けた試みの一部として、クルド・アイデンティティの表現の許容という、政府のためらいがちのジェスチャーがなされると同時に、こうした司法外での殺人は見られなくなる。クルド語での限定的な放送を定めた条項が採り入れられ、国内初の私営クルド語コースがはじまり、トルコ南東部の憎まれていた「非常事態」体制は取りやめられた。

この機を捉えて、BDPはその隊列を、とくにその青年部や女性部を固めた。クルド人の政治家たちは、いまやかれらの勢力下にある自治体を勢力基盤およびプラットフォームとして、クルドの政治的アイデンティティを発展させ、自治の経験を得ていった(トルコのクルド諸政党のより詳しい歴史として、Nicole Watts, Activists in Office, 2010 を参照)。この時期、将来の多くのBDP指導者たちと同様に、議会に選出され党を率いているセラハティン・デミルタシュ(Selahattin Demirtaş)や、のちにディヤルバクルの市長となるオスマン・バイデミル(Osman Baydemir)のようなクルド知識人たちもまた、市民社会のイニシアティヴ、とりわけ人権活動に、深く関わった。これらの活動家たちのルーツは、路上でのアジテーションと議会での討論との混成という、BDPの独特な政治スタイルを説明してくれる。

「この解決法を生み出したのは国家だ」

対KCK作戦で逮捕された若い活動家たちが、ハンストで指導的役割を担っている。9月12日、1980年の軍事クーデターから32周年にあたるこの日に、ハンストは開始された。参加している女性収監者9人のうち約半数が、逮捕時点で30代前半かそれ以下の年齢である。これらの女性は、しばしば論じられるクルド「新世代」の代表者である。この世代は、マズルム・テクダー(前編参照)のように、1990年代のもっとも暗い戦争の時代に成年に達し、その人生において真の平和をほとんど知らない。

予想のつくことだが、PKKが追従者にみずから命を投げ出すよう強いているという非難が、一部でなされてきた。PKKもその外部団体も、それを毅然と否定しているが。KCKのスポークスマンであるロージュ・ウェラト(Roj Welat)はEメールでこう答えた。「これはハンスト参加者たちがみずからの考えや意志で、望んで決めたことです。KCKはそれにいかなる関与もしていません」。

クルド人ジャーナリスト、ムラト・チフチ(Murat Çiftçi、前編のハムディエとは無関係)は、かれ自身「新世代」のひとりだが、ある記事を書いたために、2012年初期に3ヶ月間、獄中で過ごした。かれはその後、9年近くにおよぶ禁固を宣告され、現在は上訴中で身柄を解放されている。今回のハンストを理解するには、トルコ政府の政策を見ればいいと、かれは言う。「このような解決法を生み出したのはトルコ国家であると、わたしは思っています。何千人もが道理もなく獄中にいるのですから。わたしが感じていることを、みんなが感じているんです。この判決は、われわれがよき活動家であるからではなく、たんにクルド人であるがために下されたものであると。収監によってわれわれを脅し抑圧しようとしているのでしょう。でもそれは逆の結果につながりました」。

ムラトやほかの解放されたクルド人政治囚によれば、ハンストは房ごとに独自の方式で組織化されており、外部でのPKKの指導による公認は必要とされていない。異なる施設の収監者たちのあいだでの協力があるが、ただしムラトによれば、だれも抗議への参加を強制されない。かれは言う。「監獄では、クルド人収監者の名における意思決定を可能とする、独立の組織形態があります。ハンストへの参加希望者は、自分自身の名においてそう志願します。わたしが獄中にいたときにも、同じことが起こりました。20人がハンストを決定しましたが、またたく間に参加者は350人となったのです。わたしもできる限り参加したかったのですが、病気だったので止められました。つまり、だれも参加を強制されないのです。これは完全に自発的なものであって、ときには志願者を受け入れないことさえああります」。

今回のハンストははじめての試みではない。類似の要求をかかげた類似の行動が、2012年の初期にもなされた。そのときには、15日目にKCKがメディアに声明を出したことで、ハンストの収拾に成功している。声明にはこうある。「抵抗の過程で死者を出すべきではないという〔オジャランの〕呼びかけに沿って、全ての監獄での行動はいますぐ終えられるべきである」。ただし、つぎのような留保も加えられている。「抗議は活動家たちの主導のみによって進められた。このハンストは警告である。もし〔オジャランの〕状況になんの改善もなければ、新たな行動が、ハンストも含めたより包括的な方法において、発展していくことだろう」。KCKのスポークスマンであるウェラトは、現在のハンストを、「もちろん」先行のハンストを踏襲したものだと語っている。「ハンスト参加者は、その正統な要求にトルコ政府が応じた場合にのみ、終わるでしょう。かれらは公にたいして、まさにそのように宣言しています。われわれは政治的、民主的、平和的解決に向けて努めてきたのです」。

秋のハンストは、世論を動かし、議論を呼び起こしている点において、春のそれよりもはるかに成功している。それはすなわち、死者が出る前にそれを終わらせることがより難しくなっている、ということでもある〔前編のまえおきのとおり、11月18日に死者なく終結〕。多くのクルド人が、ハンスト参加者によるセルヒルダン(serhildan)──クルド版のインティファーダ──の呼びかけに耳を傾け、南東部のいたるところで連帯行動が日々おこなわれた。ハムディエ・チフチはこう語る。「7歳から70歳まで、だれもが沈黙を破っています。こうした問題から距離をとってきたようなクルド人さえもが、行動に参加し、権利を訴えています」。ハンスト50日目〔10月30日〕に設定された特別な抗議行動に言及しつつ、ムラト・チフチはこう述べた。「10月30日に、クルド地域での生活はストップしました。民衆蜂起は日々拡大しています」。

ハンストが60日に達しようとしている現在、あらゆる人の目がエルドアンに注がれている。かれが最初に見せた反応のひとつは、ハンストの存在すら否定し、数百どころかたった一人が食事を拒否しているのだと主張することであった。かれはまた、BDP指導者たちが羊肉ケバブで夕食をとっている数ヶ月前の写真を挙げながら、かれらを偽善者と非難した。ハンスト参加者たちはと言えば、要求が通らないかぎり抗議をやめないことを再度確認し、数日後には参加者が数千にも増えているだろうと請け合っている。

11月5日、閣議後におこなわれた記者会見において副主将ビュレント・アルンチ(Bülent Arınç)が報告したところでは、エルドアンは法相にたいして、法廷でのクルド語による抗弁をすべての容疑者に許可するために、必要な手段をとるよう命じたという。また、法相の許可がおりれば、オジャランは弁護士と接見できるとも伝えられている。(それにつづく弁護士の申請は、オジャランの監獄へのフェリーが「稼働していない」との理由──2011年6月から役人はそう主張しつづけている──で、取り下げられたが。)しかしアルンチは、母語による教育──ハンストで掲げられている第三の要求──のことには触れないままだった。これらは、解決が切迫している兆しである。そのあいだにも、ハンスト参加者の側では、時計の針が刻一刻と進んでいるのだが。

トルコのメディアで回覧された、ディヤルバクルからの10月の手紙に、テクダーはこう書いている。「体が痩せこけ消えるまで、われわれは状況への介入を試みます。われわれの未来をかたちづくるために。四方を壁に囲まれていては、この専制的な抑圧にたいして、他にたたかう方法はないのです。」

(了)

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【翻訳】トルコにおけるクルド人ハンガーストライキの背後で(前)

9月12日にはじまった、68日間にわたる北クルディスタン(トルコ国内)のハンガーストライキが、アブドゥラー・オジャランの呼びかけで、11月18日に終了した(Kurdish prisoners in Turkey end a 68-day hunger strike, after Ocalan’s appeal, EKurd.net, 18.11.2012)。このハンストの動向に注目しつつ、何か書きたいと筆者は思っていたが、そうこうしているうちにハンストが先に終わった。2ヶ月以上にわたる長期ハンストだったが、かろうじて死者は出なかったという。ハンストはまた、トルコ国内だけでなく国際的な注目も集め(ドイツのラジオなどでも報道されていた)、クルド問題が未解決であることを改めて国内外に知らしめた。そうした意味でのハンストの成功を記念し、いまからでも、北クルディスタンの現況を日本語で詳しく伝えておきたい。まとまった英語の論稿が出ているので、それを翻訳することにする。

論稿は背景を的確かつ詳細に説明しているので、筆者が蛇足をつけ加える必要はあるまいが、論稿以後の状況について。トルコ首相エルドアンは、ハンスト終了後、オジャランと会談する用意があると発言したそうだが(Turkey’s Erdogan says state can talk to jailed PKK leader Abdullah Ocalan to solve Kurd issue, EKurd.net, 20.11.2012)、以下の論稿でジェイク・ヘスも指摘しているように、かれの「クルド問題解決」にかんするこれまでの発言が実行されたためしはなく、かれの発言を安易に信用することはできない。

また、論稿では西クルディスタン(シリア国内)についても触れられているが、西クルディスタンについては、筆者は7月までの状況について記事を書いている。そのシリアでは、19日に「自由シリア軍」とクルドPYDとの衝突が起きている(Dozens die as Kurds, rebels clash in northern Syria, AFP, 20.11.2012, in Ahram Online)。今後、シリア反体制派と、事実上の自治をはじめている西クルディスタンとの緊張が高まっていくかもしれない。この動向を追うには、つぎのような背景を念頭に置く必要がある。以下のヘス論稿および筆者の記事でも指摘してあるように、シリア反体制派は西クルディスタンの権利を否認していること、またシリア反体制派は欧米およびトルコ、イスラエルの支援を受けたセクト主義などの諸勢力の集まりであり、シリアの政情は蜂起ではなく内戦、しかも諸外国の代理戦争と呼ぶべきものとなっている点。

【以下翻訳】

(原文 Behind the Kurdish Hunger Strike in Turkey, by Jake Hess, in Merip: Middle East Research and Information Project, on 8 Nov. 2012

トルコにおけるクルド人ハンガーストライキの背後で

ジェイク・ヘス 中東研究・情報プロジェクト(MERIP) 2012年11月8日

マズルム・テクダー(Mazlum Tekdağ)の話を聞くだけで、なぜ700のクルド人政治囚がトルコでハンストを続けているのかが、よくわかる。かれの父は経営していたディヤルバクルの菓子屋の前で、1993年に国家によって殺された。マズルムがまだ9歳のときのことだった。その2年後、かれのおじのアリは、 JİTEM(憲兵隊諜報・反テロ部隊)という、軍の後ろ盾を受けた死の部隊に誘拐された。マズルムはおじを二度と見ていないが、元 JİTEM のエージェントがのちに伝えたところによれば、かれは6ヶ月にわたり拷問を受けたすえに殺され、死体はディヤルバクルのシルヴァン地区の道端で焼かれたという。

そのような経験から、トルコでは数多くのクルド人が、結成当初から非合法化されている、クルディスタン労働党(PKK)の武装抵抗運動に加わっている。しかしマズルムや、他のやはり数多くのクルド人は、親クルド諸政党において、非暴力の手段をつうじて自民族の権利のためにたたかうことを選択した。それらの政党はトルコ国家に活動を許可されていたが、その後禁止された。マズルムがはじめて逮捕されたのは2001年、かれが17歳のときだった。かれはいま28歳になるが、投獄されてから3年半になる。いかなる罪も犯していないにもかかわらず、だ。かれやその仲間がクルド語で抗弁することをトルコ法廷が許可しなかったので、かれは密室裁判を受けた。かれらはみなトルコ語を流暢に話すことができるが、政治的主張として、そうしないのである。

2002年以来、トルコ国家はじょじょに、慎重に、国内のクルド人の政治運動にたいする態度をやわらげてきた。政権党である公正発展党(AKP)の内部で主張をしていくことを選択したクルド人も、なかには居る。しかしながら、他の大半のクルド人にとって、選択肢は2つだ。マズルムのように投獄される危険を避けながら、平和的に要求をおこなっていくか、それとも、PKKとともに武器をとるかだ。これこそが、マズルムや他のクルド人政治囚によるハンストの背景である。ハンストは9月12日にはじまった。要求として掲げられているのは、クルド語による教育や裁判を受ける権利や、2011年7月から弁護士との接見を禁じられている、投獄中のPKK指導者アブドゥラー・オジャランの処遇改善だ。

ディヤルバクルにあるディジュレ大学の法学教授、ワハップ・ジョシュクン(Vahap Coşkun)は、インタビューにこう答えた。「これらは正当な要求です。ハンスト参加者をクルドの大部分が支持しています。クルドの政治的選好はさまざまかもしれませんが、言語の使用権は、誰もが同意する要求事項だと言えるでしょう」。7月には数百のクルドNGOが、オジャランの隔離収監に抗議する共同声明を発している。ジョシュクンによれば、そのような隔離には「いかなる法的根拠もない」。現行のハンストにおいて目をひくのは、トルコ人のNGOや知識人(多くの学者や作家を含む)も、ハンストの参加者および要求を支持している点である。イスタンブールおよびアンカラにある、トルコで最高水準の大学では、連帯のデモンストレーションが行われている。

解決を目指して

1990年代はじめ以来、トルコにおけるクルド人の政治運動は、交渉をつうじて、トルコ国境内部での自治および権利拡大にもとづいて、クルド問題を解決することを呼びかけてきた。それはPKKも含めてである。西欧のメディアはつねに、PKKのことを「分離主義者」という誤った性格づけとともに報道しているが。PKKの側からは、対話に進むための停戦宣言が出されてきたが、トルコ軍がそれに応じて軍事行動をやめたことはなかった。政府側も、停戦宣言を退け、PKKの殲滅の宣言を繰り返すのが通例である。

2009年以来、クルドの権利運動の担い手や弁護士、ジャーナリストなど、約8千人のクルド人が、トルコ警察の作戦行動により逮捕されてきた・クルド共同体連合(KCK)の弾圧が目的だと言われている。KCKは諸団体の包括組織で、PKKも含まれており、したがってやはり非合法化されている。実際に、被拘留者のほとんどは平和民主党(BDP)の関係者である。BDPは合法政党であるが、PKKと政治基盤を共有しており、同じ要求を掲げている。

この新たな抑圧の影で、2009年から2011年なかばまで、トルコ国家とPKKの密談が行われていた。それに並行してオスロでも、また終身刑のオジャランが収監されているイムラル島(İmralı)でも、会談があった。何が話されたのかについては、情報は少ない。ただし、和平が近づいている証拠はある。2011年にリークされたオスロでの会談の録音で、トルコ諜報部長官ハカン・フィダン(Hakan Fidan)が述べていたところによれば、トルコ首相エルドアンとオジャランは、たがいの見解の「90から95パーセント」に合意していたという。オジャランが1999年に捕われて以来PKK指揮官を務めているムラト・カラユラン(Murat Karayılan)は、双方は解決に「非常に近いところ」に来ており、解決への「条件は熟した」と、のちに語っている。

さらには、トルコ社会における和平合意への準備が整っていることを示す証拠もある。いまだにトルコ人の大半にはPKKの評判は悪いが。エルドアンがPKKと交渉したことを野党が批判しているとしても、フィダンの発言が流れたさいに、下からの大きなバックラッシュはなかった。クルド問題は戦場では解決しえないという自覚は、過去十年のあいだに、双方のあいだに広がり、それに促されて代案をめぐる公的な議論が行われてきた。

それだけに、2011年6月のトルコ議会選のころに交渉が突然断たれたせいで、歴史的な機会は失われてしまったのだと考える根拠は、十分にある。2012年9月にテレビ上のインタビューでエルドアンは、対話が終わっていることを認めた。「会談は終わりにした。コミュニケーションが不誠実なものだったからだ。そのことが表面化したので「終わりにしよう」と言ったのだ。それが望んだ結果であろうが、あるまいがね」と、かれは語った(Milliyet紙、2012年9月27日)。

トルコ政府による対話中止の決定は、クルド側に不満を残した。クルドの若いジャーナリストで、トルコ南東のクルド地域での繰り返される人権侵害を記録した後に二年間投獄されていた、ハムディエ・チフチ(Hamdiye Çiftçi)は、こう語る。「クルド人は長いあいだ、〔解決への〕偽りのない一歩を待ち望んできました。2011年の総選挙のあいだ、和平への期待はとくに高まっていました。しかし政府は、対話と平和のために何もすることはなく、その本性をさらけ出したのです。誰もかれらを信じません」。チフチや他の人々は、エルドアンが会談をやめたのは選挙結果のためだと思っている。BDPから36人の候補者が先例のない勝利を収めたことで、抑圧と政治的周縁化によりクルド人の運動を掘り崩そうとする政府の試みが無益だったことが明らかになった。その結果を認めまいとして、政府は警察行動に踏みきり、交渉に関連すると思われる人々を捕えていった。クルド人被拘留者8000人のうち約半数が、2011年なかば以降に逮捕されている。

同時に、対PKKの軍事作戦がエスカレートしている。PKK指揮官カラユランは「フィラット・ニュース」(Fırat News Agency)とのインタビューでこう語った。「われわれはトルコの代表団とのあいだに合意議定書を取り交わした。エルドアンはそれを認めねばならない。だがかれはそうしない。そのかわりに、自分たちは力があり、われわれを武力でねじ伏せられると信じて、あらゆるところで攻撃を強めている。われわれは冬に深い痛手を被ったが、春には組織を立て直して、夏には攻勢に移った。」

国際危機グループ(International Crisis Group)によれば、いまやトルコ南東部での戦闘は、1990年代以来もっとも深刻なレベルにまで達している。PKKはその軍事行動を強めた。クルドの弱体化が平和への道ではないことを、そして、過去十年来の和平交渉にもかかわらず、トルコ政府が南東部の「平定」に明白に失敗したということを、はっきりさせるためだ。それまでの戦闘は人里離れた山間部に限定されていたが、いまやPKKは、クルド地域の都市部でのトルコ兵や軍事施設への攻撃を強めている。PKKはまた、同地域における与党AKPの役員や、トルコ国家のために働いていると見なされる教師などを、拘留している。

明らかにPKKの動きは、シリアのクルド人たちの最近の成果によって、拍車がかかっている。国境の向こうの同胞を気にかけることなく、トルコ国内のクルド人のために、アンカラとの対決に集中することにしたのだ。予測がつくことだが、いまトルコ政府は、PKKがアサド政権を支援していると避難している。2011年3月からのシリア蜂起以前にねんごろな関係にあったのは、アンカラとダマスカスだった、ということは無視しながら。現在のシリア大統領の父であるハーフィズ・アル=アサドは、1980年代から1998年まで、PKKの戦士が、またしたがってオジャランが、シリア領土内に駐留することを許していた。しかし1998年、アンカラの圧力で、ダマスカスはこのPKK指揮官を追放した。現在、PKKとそのシリアにおける姉妹組織であるPYDは、トルコに支援されたシリアの反体制派とたたかっている。シリアの反体制派は、アサド後のシリアにおけるクルド人の権利に十分な保証を与えなかった。

いくつかの点で今回のハンストは、この新たなクルド抵抗運動の拡大であり、またクルド問題の包括的解決の必要が切迫したものとなっていることの反映でもある。このハンストは、そのような解決のために不可欠の主要な諸要求に注目を向かわせることで、トルコ国内の政治状況の停滞を打破し、政府を交渉のテーブルに戻させようとしている。クルド人市民の基本権にたいする政府の拒絶にたいして、トルコ世論の関心がふたたび集まった点において、ハンスト参加者たちは重要な成功を収めたと言える。

エルドアン首相はこの秋に、「必要があれば」国とPKKの交渉を準備するかもしれないとほのめかした。とはいえ、2005年ディヤルバクルでの「政治的解決の必要を認識している」という誇張された演説から、2009年に提示された、いまや消えかかっている「民主的開放」(demokratik açılım süreci)まで、エルドアンが過去にしてきたのは、期待を高めてから落とすことでしかなかった。「民主的通路」は解決への道をもたらすとされていたが、かれの誓約にもかかわらず、新たな憲法草案へと進展することはなかった。それを踏まえれば、そのようなほのめかしには信用ならない。しかも、クルド語の教育もクルド人の自治も認めないと、首相はすでに発言している。それではどんな「解決」がかれの念頭にあるのかと、クルドは首をかしげさせられるままだ。

後半へ)

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西クルディスタンはどうしているか シリア「蜂起」の背後で(後)

中編を書いてから数日とたたないうちに、西クルディスタン(シリア北部)の情勢は大きく動いた。7月19日から約一週間のあいだに、シリア政府軍がシリア北部のクルド地域から撤退したのである。結果、コバネ、デレク、アムーデ、エフリン、サリ・カニ(Kobane, Derek, Amoude, Efrin and Sari Kani)がシリアのクルド勢力下に置かれた(Liberated Kurdish Cities in Syria Move into Next Phase, Rudaw, 2012.7.25)。この新たな局面の暫定的な分析をもって、本記事を差し当たり終える。

4. 西クルディスタンの自治化をめぐって

この件に関する日本語の報道は、例によって断片的である。毎日新聞の7月27日記事は、この件でトルコが警戒を強めている点を強調するものとなっている。論点は大別して3つ。1. トルコのエルドアン首相が同地域への介入をも辞さないと表明したこと。2. 北クルディスタン(トルコ)からPKKのゲリラ兵や、南クルディスタン(イラク)自治区のペシュメルガ(軍)が、西クルディスタンに入り込んでいると言われていること。3. 西クルディスタンは「政府軍が戦闘の激化した首都やアレッポ市などに移動した隙を突いた」こと。

1はともかくとして、2は、PKKの関与については以前からシリアの「クルド民主統一党」(PYD)が公言していることであるが(中編参照)、その一方でイラクのペシュメルガについては事実ではない。とはいうものの、クルド自治政府の国境沿いでは、シリアからのクルド難民が軍事訓練を受けていることが、公式に発表されているように(Iraqi Kurds train their Syrian brethren, aljazeera, 2012.7.23)、自治政府からの軍事的協力そのものはすでに進んでいる。3についても、やはり正確ではない。中編でも論じたように、2011年以降の情勢のなかで、シリア政府とクルド勢力とのあいだには一定の暗黙・非公式の「戦略的妥協」が作り出されてきた。今回のクルド地域からのシリア政府軍撤退も、その一環と見るべきだろう。実際いくつかの街では、軍だけでなく警察や行政機能さえ、すでに撤収を終えている(State workers leave the city, Kurd Watch, 2012.7.24)。

シリア政府と反体制派との内戦への不介入および政府との「戦略的妥協」のもとで、西クルディスタンの自治化を準備してきたのは、トルコPKKの姉妹組織PYDである。政府軍や「自由シリア軍」(FSA)がクルド地域を戦場にしないよう、PYDは武装治安部隊を独自に組織化している。実際、先日に政府軍とのあいだで衝突があったようだ(Clashes between Kurds and Syrian army in the Kurdish city of Qamişlo, Western Kurdistan, Ekurd.net, 2012.7.21)。くわえて、イラクのクルド自治区に本部を置く「クルディスタン国民会議」(KNC)もまた、PYDと50:50の割合で統治に参加している。西クルディスタン解放に先立って、すでに7月11日にはPYDとKNCが、イラク・クルド自治区のエルビルで、自治区大統領マスウド・バルザーニーの後見のもと、自治区の共同統治にかんする合意を結んでいる(Liberated Kurdish Cities …)。

しかしながら、西クルディスタン内部においても亀裂が潜在している。時間は前後するが6月末、PYDの武装部隊がKNC勢力のデモを鎮圧するというできごとがあった(PYD uses force to prevent demonstrations, Kurd Watch, 2012.7.6)。PYDとKNCの対立や衝突の存在は、以前からいくつかの記事でほのめかされていたが、筆者の思っていた以上に対立は激しくなっていたようである。さらには7月初頭にエフリンで、PYD支持者とKNC支持者とのあいだで衝突が起き、そのなかでPYD側の1人が殺され、その数日後には報復として、今度はKNC側の2人が殺されるという事件まで起きている(Father and two sons kidnapped and murdered by the PYD, Kurd Watch, 2012.7.21)するとさらにKNC側は「自由シリア軍」(FSA)にたいして、PYDが「反政府デモを弾圧」したと報告し、PYDとの衝突を招いた(Danger of Kurdish Civil War in Syria, Rudaw, 2012.7.8)。この対立が「どろどろとした」「マフィア風の」クルド的「派閥政治」の表れであるという、やや悪意の込められた見方もあるが、「マフィア風」かどうかは別としても、一部での派閥的な対立が激化していったという経緯は考えうる(Syria’s Kurds Play The Long Game, Ostomann, 2012.7.21)。だが経緯はどうあれ、自由シリア軍という西クルディスタンの自治の協力者ではありえない武装勢力を呼び込むことがきわめて危険なことは、まちがいない。シリアの内戦のはじまりから1年半、これまで西クルディスタンが守ってきた内戦からの独立が水泡に帰すことにすらなりかねないからだ。ちなみにFSAのリアド・アル・アサドは、今回あらためて西クルディスタンの自治権を否定しており、さらには、クルドにはFSAを支持するかPYDを支持するかの二択しかないとほのめかしている(Leader of Free Syrian Army Says No Kurdish Region Allowed to Establish in Syria, Rudaw, 2021.7.31)。

11日エルビルにおけるKNCとPYDの合意以後も、対立が克服されているようすはない。たとえばRudawの前記事では、PYDがクルド国旗(全クルディスタン地域共通の)以外にPKKの旗を使うことに、KNCが反対しているが、それが聞き入れられないとされている(Liberated Kurdish Cities …)。中編でも触れたように、KNCおよびイラクの自治政府が、PYDとPKKのつながりを快く思っていないことは確かだ(1990年代前半にPKKがイラクKDPに対立しPUKの側について以来)。だからといって自治政府は、PYDを排除しようとしているわけではなく、むしろKNCとPYDの協力関係に貢献してきた。また、現状における両勢力の実際の立ち位置が異なるわけでもない。PYDのみならずKNCも、シリア反政府勢力がクルドの自治権の法的承認を確約しないかぎり、イスタンブールの「国民会議」には協力しないという姿勢を保っている。PYDとKNCの統一または連合が、西クルディスタンの未来にとって重要であることは、当人たちが認識している。

そうだとすれば、PYDとKNCの根本的な違いはどこにあるのだろうか。また、それはどのような意味をもつのだろうか。

5. 現実主義の問題とクルディスタンの未来

PYDとKNCの対立は、とうぜんながら両者がとる政治路線の違いに起因する。また両者の路線が、それぞれを主要にバックアップしているトルコPKKの路線とイラク・クルド自治政府とにおける路線の違いに影響されていることも、疑いを容れない。(すでに前編・中編で見たように)PYD-PKKがより社会主義的な解放と自治のアジェンダをもっているのにたいして、KNC-自治政府の路線はより現実主義的で無原則的に戦略を選んでいると、おおまかに言えるように思える。

見たところ保守的スタンスのあるブログ(有名なようだ)に、「シリア問題から西クルディスタン(Western Kurdistan)出現の可能性」という記事が上げられているのを見つけた。この記事では、西クルディスタンの現況において、「シリア内でのクルド人を巻き込んだ紛争の激化よりも、イラク北部の自治区がこれをきっかけに、バグダッドのイラク政府と離反した軍事活動に出る」可能性が、すなわち、それが「イラク崩壊の引き金にもなりかねない」点が重要だとしている。しかしながら、バルザーニー自身の抱いている長期的展望のいかんは別としても、現況がそのような「イラク崩壊」やクルディスタン全体の分離独立へと直接的に発展する可能性はまずないだろう。

イラク・クルド民主党(KDP)党首および自治区大統領であるマスウド・バルザーニーがことあるごとに、自治区の分離独立のカードでイラク中央政府を脅していることは知られている(たとえば『中東エネルギー。フォーラム』「激しい口調でマリキ・イラク首相を非難したクルド自治政府のマスウド・バルザーニ大統領」2012.3.23参照)。だが、バルザーニー自身が何を考えているかと、その実現可能性とは別である。かれはこのカードを、実際には中央政府から譲歩を引き出すための交渉手段として用いられているにすぎないように思える。バルザーニーの目的は石油の採掘権であり、自治区の領域のキルクークへの拡大というイシューも、この目的と結びついている。

南クルディスタン(イラク)の諸大国への依存を考慮に入れれば、自治政府が一足飛びに分離独立へと踏み切ることは、ますます考えにくくなる。党首ジャラル・タラバーニーを中央政府大統領として送り出しているクルド愛国党(PUK)は、自治区の分離独立が時期尚早であるという見解を再確認しているが、その理由が実にあけすけである。自治区内の反対派(後述)が、KDPもPUKもクルド独立の機会をこれまでに何度も逃してきたと批判したことにたいして、PUKのスポークスマンはこう答えている。「KDPとPUKが知っていることを反対派は知らないだけだ。PUKは世界の36の諜報機関と関係をもっており、それはKDPも同じだ。われわれは世界で状況が日々どう進んでいるのかを理解している」(Considering The Kurdish State, Rudaw, 2012.7.26)。1990年代以来イラク戦争後まで一貫して、KDPとPUKはアメリカに支えられてきた(両党とも、1992年にCIAの後ろ盾で結成された「イラク国民会議」に、はじめから参加していた)。もちろん機会さえあれば、両党ともアメリカや西欧諸国を出し抜こうとはするだろうが、しかし同時に、そうした帝国主義陣営の意図の思惑を大きく逸脱することは後ろ盾を失う危険を招くということも、とうぜんながら分かっているはずだ。そうだからこそ、このような発言が出てくるわけである。したがって、帝国主義陣営がクルディスタンの完全独立に利益を見出さないかぎり、KDPやPUKがその実現に本気で踏み切ることはまずないだろう。

対外的のみならず対内的にも、KDPとPUKの二大政党にたいする自治区からの批判の声の高まりがある。自治区内の反対派として2009年に結党されたゴラン(Gorran、変革運動の意)は、KDPとPUK双方の腐敗を批判し、同年の自治区議会選挙で一期に第二党へと躍り出ている(同党ウェブページWikipedia英語記事)。ゴランはクルドの国家独立も目標に含めているが、なによりまずイラク・クルド自治区内での改革を追求している。このゴランに批判されているようなKDPおよびPUKの「腐敗」は、たとえばバルザーニーの専断政治において顕著である。最近も、自治区の「クルディスタン諸陣営連合」( Kurdistan Blocs Coalition)から次のような批判の声が出た。「イラク議会や自治区議会には、バルザーニーを問う権利はなく、説明のための質問しかできない」(Iraq and Kurdistan Region’s parliaments don’t have right to question Barzani, says Kurdistan Coalition, AK News, 2012.7.30)。

南クルディスタン自治政府の、とりわけマスウド・バルザーニーのスタンスには、現実主義的あるいは機会便乗的な傾向があるように見える。そもそも自治区の獲得が、アメリカがイラクで行った帝国主義戦争の副産物でしかなかった以上、自治政府がアメリカをはじめとする帝国主義陣営から真に独立した戦略をとることは、ほとんど考えられない。現実主義の問題は、それが真に現実的かどうかというよりも、それがつまるところ政治主義的で、より根本的な変革や権利拡大をむしろ妨げうるという点にある。なるほどバルザーニーの諸政策が、クルド自治区の何らかの利益を代弁しようとしていることは間違いない。だがそれは、開発主義あるいは利益誘導(欧米資本の誘致)であり、しかもその専断的なやりかたにたいする批判が強まっている。南クルディスタンにおいて支配的な現実主義や便乗主義が、どの程度の影響を西クルディスタンに及ぼしてきたか、また及ぼしうるかについては定かではないが、いずれにせよPYDとKNCの統一ないし連合においては、安易な現実主義路線は避けられるべきだろう。

他方、PYDおよびPKKの基本アジェンダが自治および連邦制にあることは、前編や中編で見てきたとおりである。PKKが2000年代にこのような路線に転換したことには、国家独立そのものが難しいという現実主義的な理由も、もちろんあるだろう。だが連邦制の構想そのものは、機会主義的な戦略ではまったくない。獄中のPKK党首オジャランの獄中出版をはじめとして、北クルディスタンでは、クルディスタンの民主的・社会的な自治の条件や方途にかんする議論が積み重ねられており、その実現のための北クルディスタンの諸団体の包括組織である「民主的社会会議」(Democratic Society Congress)が、2011年に立ち上げられるところまで来ている。そしていま、南クルディスタンではなく西クルディスタンで、そうした自治構想を実現していく可能性が、不安定であれ生じつつある。この構想が実際にはどのように、またどこまで実現されうるのかは、安易に予想でることではない。だが少なくとも、欧米および(クルド以外の)中東諸国家の影響を排した自治化を実際に進めている点において、これまでのところPYDは一貫している。

筆者は、PYD・PKKがクルド独立国家の希望を完全に放棄したと判断しているわけではないし、どのような自治や独立をクルドが目指すべきかについて具体的な提案したいわけでもない。だが、KDPやPUK(シリアKNCも?)の現実主義・機会主義よりも、PYDやPKKの追求する社会的自治の拡大路線のほうが、長期的にはクルドの諸権利の発展により寄与するように思える。もちろんPYDがみずからの路線をKNCにたいして力づくで貫くようなことは望まない。ただ、安易な現実主義をこえて西クルディスタンが結束を作り出せたとき、クルディスタン全体の将来の結束へのよりよい展望も開けるのではないだろうか。

本記事に着手した当初の目的は、シリア情勢にかんする「民主主義」陣営の支配的観点を相対化することであったが、けっきょくクルド問題の考察としての比重が高くなった。とはいえ、そもそもクルド問題もまた帝国主義の一所産であり、そのなかでもかなり複雑な部類に入る。イスマイル・ベシクチはクルディスタンを「多国間植民地」としたが、今日にいたるまで中東が欧米諸国にほんろうされつづけていることを踏まえれば、植民地内植民地と呼んだほうがよりふさわしいようにも思える。トルコ・シリア・イラク・イランがそれぞれにクルディスタン諸地域を抑圧してきたのだとしても、そのような分割と抑圧の構造そのものは、第一次大戦後のセーヴル条約およびローザンヌ条約をつうじて、英仏をはじめとする西欧列強がこしらえたものだった。もちろん、こうした構造をいかに乗り越えていくかは、クルドやほかの中東諸人民じしんに懸かっている。ただしかれの仕事は、外交的および経済的な優位のもとでいまだに中東をほんろうしている、帝国主義陣営の圧力がなければ、長期的にはよりよく達成されることだろう。帝国主義陣営内の人間が中東にできる貢献は、人道介入ではなくてその批判である。

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西クルディスタンはどうしているか シリア「蜂起」の背後で(中)

前編では、1920年代のクルディスタン分割以後の西クルディスタン(シリア内)の小史を翻訳紹介した。続いてここでは、2011年以来のシリア内戦の渦中におけるクルド人の動向に光を当てたい。

2. シリア内戦の渦中で

まずシリアの情勢だが、武装勢力と政府軍の衝突がはじまったのが、2011年3月(市民的抗議はそれ以前からあったが)。シリア国外のさまざまな亡命者や反政府勢力からなる「シリア国民会議」がトルコ・イスタンブールで正式に立ち上げられたのが、同年10月(この頃までには、NATO諸国やイスラエル、湾岸アラブ諸国の介入も公然化した)。国連和平プラン(アナン・プラン)が進められたのが今年の2-3月、停戦に入ったのが4月、ふたたび戦闘がはじまったのが5月末。その一方で、西クルディスタンの主要な諸団体・勢力は現在まで、政府側、反政府側のどの組織とも最終的な協力関係を結んでいない。

2011年のあいだ、西クルディスタンは内戦から距離を取りつづけてきた。短絡的な観察者は(そしてシリアの反政府武装勢力も)、「反アサド」に加わるか、さもなくば「親アサド」かという二者択一を押しつけてくる傾向にあるが、もちろんそのような見方はまったく現実的ではない。クルド人たちは以前から政権や現制度に抗議してきた。かれらがシリア「国民会議」に加わらないのは、たんに、この組織と協力しても西クルディスタンの地位が保証されそうにないからである。

前編でも取り上げたブラウンス(Brauns)の記事にもあるように、西クルディスタンでの抗議・抵抗運動は2000年代に活発化している。シリア現政権は当初、これに苛烈な弾圧をもって応え、2008年には西クルディスタンのさらなるアラブ化を進める「通達49」を布告した。ところが2011年、チュニジアからアラブ諸地域に蜂起が広がるのを見て、政権はこの通達を3月に撤回する。さらに4月にはバシャル・アル・アサドが、1962年の人口調査と大統領通達で市民権を剥奪されたクルド人たちとその子孫、約20万人の市民権を回復させた(ブラウンス記事)。こうして結果的には、西クルディスタンは現政権から一定の譲歩を引き出すことに成功している。だが、このことをもってかれらを親アサドと見なすには、あまりに無理がある。端的に言って、それは意図的、政治主義的な曲解でしかない。

昨年11月の時点でも、西クルディスタンはまだ静かであった。「クルド民主統一党」(PYD)のある活動家は、これが「戦術的選択」であると表明している。すなわち、いま政府との武装闘争に加わるのではなく、西クルディスタンの組織化に力を注ぎ、現政権が倒れたあとに備えるという意味だ。また同党は、現在のシリア情勢に外国が介入することにも、はっきりと反対している(We Oppose Foreign Intervention in Syria, Rudaw, 2011.11.13)。

イスタンブールの「国民会議」(SNC)にたいしても、西クルディスタンは当初から懐疑的なまなざしを向けていた。あるクルド人作家は、「いま起きようとしているシリアの変化を、ムスリム同胞団は自分たちのために利用しようとしている」と非難し、またその拠点を提供しているトルコ政府をも批判している。自国のクルド人にたいするトルコの抑圧の歴史を思い出すとき、シリア「左翼クルド党」の活動家のつぎの一言は、まったくもって妥当である。「自国の2500万人のクルドに権利を与えないトルコが、どうすればシリア人民とシリアのクルド人の権利を守れるというのか」。こうして、イスタンブール「国民会議」への呼びかけを、西クルディスタンの大半の政党や組織はボイコットした(Most Syrian Kurdish Parties Boycott Opposition Gathering, Rudaw, 2011.8.29)。

それどころか、イスタンブールのSNCと向こうを張るように、その正式発足とほぼ同時期の2011年10月には「シリア・クルド国民会議」(Kurdish National Council in Syria: KNC)が、イラク・クルド民主党のマスウド・バルザーニー(Massoud Barzani)の後援により、イラク・クルド自治区内のエルビル(Erbil)で立ち上げられている(From Carnegie Middle East Center, またKNCのウェブページ)。KNCはSNCとも交渉をもっているが、KNCの基本的要求である連邦制を、SNCは現在にいたるまで受け入れていない。今年3月末の会議で両者は決裂しており(Rudaw, 2012.4.7)、同じことが今月初頭のカイロでの会議でも繰り返されている(毎日新聞、2012.7.4)。とくにカイロの会議にさいしてKNCは、SNCがクルドを概念として認めていないとして、議場を退出している(Kurds walk out in protest over nationality, Ekurd.net, 2012.7.4)。

最後に、今年6月にSNCの議長を引き継いだ、アブドルバセト・シーダ(Abdulbaset Sieda)についても言及しておかねばなるまい。シーダはシリア・ハサカで生まれたがのちにスウェーデンに亡命したクルド人で、かつてはダマスカス大学にポストをもっていた学者である。かれの前任者ガリウン(Ghalioun)がその座を退いたのは、国内民衆を代表していないとして、クルドのみならず他のシリア国内諸団体からも非難されたためであった。そのような経緯から、クルド人であるシーダが、「融和」を象徴する人物として選ばれたのだろうと見られている(Profile: Syria’s Abdulbaset Sieda, Al-Jazeera, 2012.6.10)。しかしながら、その経歴から明らかなように、シーダはシリア国内の現在のクルド諸勢力と直接の結びつきをもたない。かれはPYDやKNCからも、西クルディスタンを代表していない、トルコの政策に追従している、等の理由で非難されている(Kurds Wary of New Syrian Opposition Leader, Rudaw, 2012.6.12)。実際にシーダ自身が、連邦制の要求は(SNCに)不安や不和を引き起こすので、現段階では時期尚早と主張しており、「民族自決」を具体的制度の構想ではなく「原則」として確認するに留まっている(New SNC Leader: Talk of Federalism Causes Fear and Anxiety, Rudaw, 2012.6.19)。

(ちなみに、「クルドニュースBlog」で、昨年末から4月までのニュースが日本語で集中的に紹介されているのを見つけた。なぜ4月で中断されているのかは不明だが、この時期の報道を追うことには役立てられる。)

3. 西クルディスタンの諸勢力

その基本的要求がシリア内でのクルドの権利拡大であり、その政治的保証としての連邦制であるという点では、上述の西クルディスタン諸勢力は、おおむね共通している。ただし、情勢との関連における立場づけや戦略の面では、西クルディスタン内諸勢力も一枚岩ではない。

まず歴史的前提として、つぎの2点は押さえておくべきだろう。第一に、隣接する他のクルディスタン諸地域からの影響。前編の小史にあったように、西クルディスタンのクルド人のなかには、隣国からの難民が多くおり、また1980年代からは特にトルコのPKKとの関係が強くなった。第二に、西クルディスタンにおける諸政党の分立は、基本的には地理的理由によるものであるという点。ブラウンスによれば、1957年創設のシリア・クルド民主党に由来する諸政党が現在17以上存在するが、それらの綱領に特別大きな差異があるわけではない。西クルディスタンの諸地域は飛び地状になっており、またパルティザンのための避難地となりうるような山あいの場所がなかったために、諸政党はこのように分立せざるを得なかった(ブラウンス記事)。

2003年創設の民主統一党(PYD)は、PKKと密接な協力関係にあり、それがPKKの利益への追従、さらには「親アサド」とされるPKKへの追従、と見なされることもあるようだ。だがPKKとの協力(国境地域の実効統治への準備などにおける)はPYD自身が公言していることであり、PYDが陰でPKKとなにかを共謀しようとしているというわけではない。PKK側の意図もまた、トルコ政府のシリア情勢へのあからさまな介入を牽制しようとするものであり(トルコがシリアに進軍するなら、PKKはトルコ国内で大規模な戦闘を始める、としている)、外国政府の介入反対というPYDの姿勢と矛盾はない(ブラウンス記事)。PKKがある時期、「トルコ政府にたいする切り札」としてシリア政府にかくまわれていたという点はあるが、しかしその関係も1990年代には終わっており、この点からPKKを親アサド勢力と断ずることはできない。なにより、PYDとPKKは「民主的社会主義」や「民主的連邦制」といった共通のアジェンダを追求している。

なお、SNCにたいするPYDの態度は、大筋では前節のとおりだが、今年7月初頭のカイロ会談では、歩み寄りへの姿勢も見せている(Kurdish PYD party agrees on transitional government in Syria, Ekurd.net, 2012.7.4)。ただしそれは、この会議についてはトルコの影響が薄く、また国際介入をめぐるものではあれ、軍事介入とは別の路線(アナン和平プランに代わる)を主題としたものであったためかもしれない(それゆえにだろうが、シリア自由軍はこれをボイコットしている)。

イラクのバルザーニーの後援のもとに立ち上げられたクルド国民会議(KNC)もまた、シリアにおける連邦制の要求という点では、基本的にぶれていない。先のカイロ会談では、KNCは「SNCが革命を乗っ取っている」と痛烈に批判している。この決裂がSNCによる連邦制構想の拒否にあることは、やはり先に指摘したとおりである。ただし、イラク・クルド自治区で発行されているRudawの諸記事が、しばしばPYDとPKKのつながりを強調し、PYDがPKK寄りであることを強調しようとしているところを見ると、少なくともイラクKDPは、西クルディスタンとPKKとのつながりをあまり快く思ってはいないようである。

それとは別にもうひとつ、クルド愛国会議(Kurdish Patriotic Conference: KPC)という組織が、西クルディスタン内諸政党の連合というかたちで、やはり昨年10月に立ち上げられている。これはどうやらシリア国内で活動しているようであり、それゆえにKNCとは別の組織と見るべきだろうが、管見のかぎりでは関連情報が少なく、とくにKNCとの関連はよく分からない。この組織は西クルディスタン内での分裂を招いているという批判があり、またその求心力はすでに低下しつつあるという指摘もなされていることを、付言しておく(Kurd Watch, Conflicts with the Kurdish Patriotic Conference lead to division of protest movement, 2011.11.7; The Kurdish Patriotic Conference is nothing more than a name. Compared to the PYD it has accomplished nothing, 2012.3.12)。

後編

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ドイツ語記事 日本の入管体制、在日クルド人について

ドイツ語の記事を2つアップしました。日本の入管体制および在日クルド人についてです。

Abriss der japanischen Einwanderungs- und Flüchtlingspolitik (日本の移民・難民政策の概観)

Die Kurden in Japan (日本のクルド人)

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シリアの反政府武装勢力について少なくとも言えること

シリア情勢がますます深刻になり、それとともに諸外国──西欧、アメリカ、イスラエル、トルコ、GCC(湾岸協力会議)諸国──の干渉もますます強まっている。5月25日にはフーラ地区で、6月6日にはクベイル地区で、相次いで大規模な市民殺傷が起きた。いつものように責任の押しつけあいが続く。政府側は反乱勢力の仕業と、反政府側(のうちの武装勢力)および各国マスメディアは政府系民兵とされる「シャビハ」(Shabbiha)の仕業と見なしている。フーラの殺傷事件をめぐって、日本を含む西側諸国は足並みそろえてシリア大使追放を決定し、軍事介入の恐れが一段と高まっている。

内戦という状況のなかで、どの情報が真実に近いのか、また逆にどの情報にどんなバイアスがかかっているのかを、正確に把握するのは難しい。こうした激しい政治的対立をめぐっては、情報の取捨選択ひとつとっても、「どちらの肩をもつのか」という政治的な立場選択に否応なく結びつく、あるいは結びつけて捉えられがちだ。しかしながら、難しいとは言っても、事態の全体像を検証することは可能だし、また必要なことでもあろう。端的に言って、これは革命でも民衆蜂起でもなく、米欧イスラエルおよび中東の親米政権(トルコ・湾岸諸国)とアサド政権との非公式戦争である。

Voltaire Net(Réseau Voltaire)のティエリ・メイサンは、フーラでの市民殺傷を、反政府勢力であるシリア自由軍の仕業と認定している(Thierry Meyssan, L’Affaire de Houla illustre le retard du renseignement occidental en Syrie, 6月2日、また英訳もあり)。かれによれば、事態は次のとおりである。シリア政府は「数週間前からフーラ地区の統制を失って」おり、したがって「シリアの裁判官が現地に赴くことはできない」し、メディアもまた「シリア自由軍の許可と監視なしには取材できない」こと。シリア自由軍が事件の翌日には死体を埋めてしまったので、「国連の監視員は多くの死体の法医学的調査ができなかった」こと。虐殺の前日(24日)の夜に、シリア自由軍「同地域の統制を強化するための非常に広範囲な軍事作戦」を展開していたこと。自由軍はその地域のバース党議員やジャーナリストの関係者や縁者を殺したが、国軍の基地は一つしか陥落させられなかったので、作戦を変え、ワタニ(al-Watani)病院を攻撃し、そこや他の場所の死体をモスクに集めたこと。メイサンは、ワシントンがこれらの情報を調べもせずに、シリア大使追放の口実として用いたことを非難している。また、フーラの件が政府系民兵による仕業だと見なしうる証拠はなく、それどころか「シャビハ」なる民兵の存在は「神話」だと断言している。

もちろん、内戦の混乱の外部にある多くの者には、個々の報道がどの程度まで真実か、意図的な情報操作が含まれていないか、そうでなくともガセネタを掴まされてはいないかどうかを、詳細に判定することはできない。だが少なくとも、国軍と反乱軍とのどちらがどの地区を掌握しているかという程度のことに、白黒つかない検証不可能な風説が出回る余地はなかろう。ある軍が掌握している地域で、敵対する軍が市民だけを大量に殺傷するなどということが可能だとは信じがたい。

他方で、たとえばシャビハなる民兵がでっちあげだという断定については、報道者自身の情報収集および分析の能力を信用する以外にない。筆者は、この報道が総合的に見て誠実なものだと思うし、少なくとも政府側の軍または民兵がこの件に関与した証拠はないとしている点は正しいと判断するが。

とはいえ、シリア自由軍がどのような類の集団であるかについては、もっとはっきりした情報がいくつもある。今年になって、もともとシリアの影響が大きいレバノンにも紛争が飛び火しているが、レバノンのメディア Daily Star によれば、5月に「シリアの反体制メンバー」が、国境付近の街で、3人のレバノン人をアサド政権への協力者だとして、なんと誘拐している。レバノンの親アサド勢力もシリア人を誘拐し、最終的には仲裁者をへて双方の人質交換が成立したとのこと(5月16日記事)。その後もレバノン国境内での誘拐は何度か起きており、最近の一件では、シリア反体制派が「新たな「市民的国家」を樹立したあとで」人質を釈放すると、堂々と宣言している(ロイター6月6日)。

一方的な誘拐ではなく誘拐の応酬なので、もちろんレバノンの親アサド勢力も問題なのだが、それにしても驚くべきは、「革命」のために堂々と他国の市民を人質にとり、かつ「自分たちの政権ができるまで解放しない」と悪びれることもなく宣言するような輩が、シリアの反体制勢力を(少なくとも「シリア自由軍」を)構成しているということである

そもそも、最初からトルコやイスラエルによって武装された「シリア自由軍」が、シリアの民衆を代表しているなどと言えないことはあきらかだ。いまだにトルコ国内からシリアの情勢を動かそうとしている「シリア国民議会」(SNC)も、2011年以前からの国内反体制運動の流れをくむ国民調整委員会(NCC, ただし意図あってかマスメディアは National ではなく Local Coordination Committee と呼んでいるが)から、「手を引くぞ」と非難を受けている(Syria’s Local Coordination Committees Threatens To Withdraw From Syrian National Council, 5月17日)。今年2-3月に国連がアナンをつうじて提示した提示した和平プランはすでに破綻しているが、その原因は、アサド政権にたいする態度の甘さといったことにではなく、このような民衆的でもなんでもない武装勢力を、自由を求めるシリア市民の代表のように扱っていることに見出されるべきだろう。アサドがシリア国民の全体を代表するに値しないとしても、シリア自由軍やSNCがアサドほどにもシリア国民を代表しているとは見なしえないし、シリアの市民の血をこれ以上流させてはならないと望む者にとって、シリア自由軍は期待をかけうる勢力などではあるまい。

ところで、シリア国内のNCCがアンカラのSNCを非難している件には、クルド人のことも関わってくるのだが、それは「西クルディスタンはどうしているか」の続き(後編)で取り上げる。だがそのまえに、帝国主義諸国の介入についてのありうべき批判にかんしても、別記事で指摘することにしたい。

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西クルディスタンはどうしているか シリア「蜂起」の背後で(前)

クルディスタン(クルド人の土地)がおもにトルコ、イラク、イラン、シリアの各領土に分割されていることはよく知られているが、西クルディスタン=シリア内クルドについては、日本語で読める研究や報道がほとんどない。『クルド人とクルディスタン』(中川喜与志、南方新社)、『クルディスタン=多国間植民地』(イスマイル・ベシクチ、つげ書房)、『クルド人のまち イランに暮らす国なき民』(松浦範子、新泉社)などからは、クルド問題全体や、トルコ、イラン、イラクでのクルドの歴史を知ることはできるが、西クルディスタンだけが抜けている。(ウェブ上ではいくつか日本語のニュース記事紹介サイトがあるが、それは追って随所で紹介する。)

そんななか、最近のシリア情勢との関連で「シリア反体制派 クルド人と連携協議」(毎日、4月18日)といった、断片的な情報だけが流れてくるようになった。一見すると、シリアの反体制派はクルド人を受け入れているように思えるが、しかし実際にはそのような単純な話ではない。

最近、西クルディスタンの現状にかんするいくつかの記事を見つけたので、それらを翻訳・紹介したい。バース党政権のみならず現在の「反体制」勢力にたいしてもクルド人が周縁化されていることや、現在の情勢にたいしてクルド人がとっている立場を見ることは、シリアでいま起きていることや、帝国主義の一般的問題についても、多くのことを考えさせてくれると思う。

1. 西クルディスタン(シリア国内)小史

この節は以下記事のうち »Geschichte des Konflikts« の節の翻訳、ただし段落分けを細かくした。 Nikolaus Brauns, Kampf um Selbstbestimmung. Hintergrund: Syriens Kurden kommt eine Schlüsselrolle für die Zukunft des vom Bürgerkrieg zerrissenen Landes zu. Am 4 Mai 2012, in der Jungewelt. 関連記事として次も参照。「西クルディスタン(シリア)の歴史と現状」、『クルド人問題研究』より)

今日のシリアの状況は、第一次世界大戦期の帝国主義政策にその根をもっている。シリアとトルコの国境は、1916年のサイクス=ピコ協定にもとづく、フランスとアメリカによる中東の重要な諸地域の分割にさかのぼる。この国境は1920年代、当時のフランスの委任統治権力によって、クルド人の生活圏のただなかに引かれた。20年代にはじまった強制的なトルコ化のために、一連のクルド部族がトルコからフランスの委任統治領へと逃げ込む。軍政当局はかれらを、新たに建設された二つの都市ハサカ(Al-Hasaka)とカミシュリ(Al-Qamischli)に住まわせた。1930年代にはクルド民族統一運動ホイブン(Xoybûn=自治、自活)の影響で、アルジャジーラ地方〔シリア内〕で自治運動が起こった。1946年にはフランス軍の撤退をへてシリアが独立したが、自治権は確定されなかった。1957年にはクルド民族主義者とシリア共産党の初期メンバーとによってシリア・クルド民主党(KDPS)が設立される。同党は、当初は反帝国主義を明確にし、また統一クルディスタンに加入していた。

隣接するイラクでのムッラー・ムスタファ・バルザーニーに率いられたクルド人パルチザン闘争を目にして、シリアの政治家たちは「分離主義運動」の拡大を恐れていた。1962年10月の臨時人口調査のあと、隣国から移入してきたとされた約12万のクルド人が、大統領通達によって市民権を剥奪される。市民権を奪われた者とその子孫は最大22万5000人と見積もられているが、かれらは「無国籍者」として、公共の職業に就くことも、最低生活食料の給付を受けることも、不動産や生産手段を所有することも、国外に旅行することもできなくなった。1963年にはKDPSが、封建的な大土地所有者の政党であるという言いがかりで禁止される。バース党のハサカ市公安局長ムハンマド・タラブ・ヒラール将軍は、ある報告書において、反ユダヤ主義的な語調で「ユダヤ人とクルド人は同類だ」と警告している。将軍が要求したのは、クルド地域の意図的な経済的放置とそれに並行したアラブ人の入植によって、国内からクルド人を追放することであった。これに対応してシリア政府は、1973年より、トルコ国境沿いへのアラブ人2万5000家族の入植による「アラブ人地帯」の建設に着手。ハーフィズ・アル=アサド(1971年から2000年まで大統領)のもとで、アラブ・ナショナリズムは「シリア・アラブ共和国」の名のもとに憲法上の保護を受け、クルド語の公的使用は政府通達によって有罪化、さらに1998年には200以上の村が改名された。

だが〔ハーフィズ・〕アサドは同時に、対外政策の観点から、トルコやイラクのクルド人政党を支援した。トルコ国家とたたかうクルド労働党(PKK)を、バース党政権は1980年から支援を続けてきた。同党の党首アブドゥッラー・オジャランはダマスカスで生活し、その党はシリア軍駐留下のレバノン・ベッカー高原に教練キャンプをもっていた。トルコとシリアのあいだでは、地中海地方のハタイをめぐる領土紛争や、トルコのダムによってチグリス河・ユーフラテス河における水路が脅かされるといった問題が起きていたので、PKKはトルコにたいするシリアの切り札として役立った。

トルコにたいするシリア内クルド人の民族的奮闘を誘導するために、バース党政権はシリア内クルド人がPKKに加わるよう本格的に推進した。トルコの諜報部の分析によれば、1990年代にはかれらは〔PKKの〕ゲリラ闘士の4分の1を占めていたという。しかしながら、アンカラ政府が1998年10月に公然と戦争の脅しをかけ、国境の戦車と地中海のNATO戦艦に臨戦態勢をとらせてからは、ダマスカスは圧力に耐えることができなくなった。オジャランは長く暮らした受入国を後にしなければならなかった。1999年2月、トルコの諜報部員によって、ケニアからマルマラ海のイムラリ監獄島に連行され、かれの逃亡は終わる。アダナ合意において、いまやシリアはPKKをテロ組織として認め、シリア領土内でのその活動を阻止する義務を負った。結果として、PKKのメンバーたちはトルコに引き渡された。

2003年のはじめに創設された、シリア内クルド人によるPKKの姉妹組織「民主統一党」(PYD)は、この上なくきびしい迫害を受けた。社会民主主義的傾向をもつクルド統一党 Yekiti のような他の党は、そこにできた空白を埋め、しだいに大きな民族的権利を訴えるようになる。サダム・フセイン政権の倒壊後にアメリカの支援で北イラクに作られたクルド人自治区の存在に、シリアのクルド人は勇気づけられた。サッカーの Fatwa チームのアラブ・ナショナリスト的なファンがジャジーラのファンのクルド人に暴行をしたことをきっかけに、2004年3月に〔シリアの〕カーミシュリーで蜂起が引き起こされた。そのさいに治安当局によって30人以上のクルド人が殺されたが、これは「クルド人の覚醒」として歴史に記憶されている。つづく数年間にクルド人の抗議がいくつも起こったが、治安当局の攻撃を受け、活動家たちは連行され、拷問を受け、死に至っている。

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社会帝国主義者オランド(フランス)

近年のヨーロッパ左翼政党の傾向からすればじゅうぶん予測可能なことだが、社会党から選ばれたフランス新大統領のフランソワ・オランドが、シリアへの軍事介入を強く呼びかけ、さっそく社会帝国主義者としての馬脚を露わにしている。『ハンブルガー・アーベントブラット』紙が報じたところによれば、「フランス大統領オランドは中国とロシアに、シリアへの介入を説得する意向」、「火曜の晩〔5月29日〕にテレビチャンネル「フランス2」で発表」(Militärintervention in Syrien: Frankreich bereit, USA nicht, in Hamburger Abendblatt, 30.05.2012)。日本語でも関連記事が読める(たとえばロイター5月30日「仏大統領「対シリア軍事介入排除せず」、欧米は大使らを追放」)。

一方、アメリカでさえ今回はまだ軍事介入には慎重だ。米オバマ大統領のスポークスマンがあらかじめ述べていたところによれば「米は現時点でさらに軍事介入へと進むことを拒否」、それは「より大きな混沌と殺戮につながりかねない」からであるとのこと(『ハンブルガー・アーベントブラット』同上)。もちろん、米政府に純粋な平和主義を期待できるわけではない。低コストで早期に目標を達成して早期に撤退するといったリビア式の介入が、シリアでは難しくなりつつあるなかで、アメリカとってシリア介入へのイニシアティヴは(いまのところ)さほど強くないのだろう。ともあれ、シリア介入の現時点での急先鋒はオランドだ。「社会帝国主義」という用語は、まさにこのような人物にうってつけである。

それにしても、一般的により「左翼的」「進歩的」「人道的」などと見られる人士・勢力のほうが、紛争への軍事介入により積極的だというのは、いまにはじまったことではないにせよ、皮肉である。この恒常化したアイロニーにいちいち驚いていられないことに、あらためて驚きを喚起したい。

25日にはシリアの首都ホムスの近く、フーラ(al-Houla)で砲撃が起こり、多数の市民が死傷した。国連人権高等弁務官の報道官は、これを政府側勢力のしわざと見なし、国連安保理は「虐殺」と認定して非難している。また、フランス、オーストラリアを皮切りに、欧米諸国は国内シリア大使の追放を続々と決定している。

今回の攻撃がどちらの勢力によるものか、市民の死について誰にどのような責任が帰されるべきなのか。また今回の件にかかわらずシリアの情勢について、どのメディア報道に、どの側から、どの程度のバイアスがかかっているのか。それを判断することはきわめて難しい。だが前提として確認しておかねばならないのは、シリア「反体制派」はどう見ても、チュニジアやエジプトのような民衆蜂起ではなく、リビアと同様に、さいしょから武装した好戦的勢力だということだ。しかもそれはNATOやイスラエル、湾岸の君主制産油諸国による軍事的あるいは財政的なバックアップを(陰で、ではなく)公然と受けている(たとえばM.チョスドフスキー 速報およびOnline Interactive Bookを参照)。今年2月から進められていた国連の和平プラン(いわゆるアナン・プラン)も、反体制側の戦闘行為もふくめたすべての責任をシリア政府側に課すもので、反体制側に肩入れしている当のNATOの責任はさいしょから問題にされていない

要するに、シリアの情勢は、一方的な弾圧や虐殺などではなく、当初から、公然たる「軍事介入」のあるなしにかかわらず、すでに戦争なのである。しかもこの戦争に手を汚しているのは、シリア政府や反政府勢力だけでなく、後者をバックアップしているNATO諸国、トルコ、湾岸君主諸国やも含まれる。だとすれば、当然ながらシリアへの現在見られるすべての介入が批判されねばならない。もちろん軍事介入などもってのほかだ。

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