クルド運動における二つの路線と中東介入

前記事では、米国のシリアへの攻撃計画がシリア内のクルド勢力をも標的にしているという報道を翻訳した。この点だけでも、軍事介入がシリアの「民主化」や多元的社会に寄与するのではなく、それに害をなすものでしかないことが分かる。端的に言えば、米日欧中心の帝国主義秩序にとって邪魔な存在は何であれ、米国は機会と適当な口実さえあれば殲滅しようとするということが、改めて確認されたわけだ。

この記事では、先の翻訳記事に補足を加えたうえで、クルド運動の二つの路線についてもコメントを加えようと思う。

1. 西クルディスタンの自治区について

西クルディスタン(シリア内クルド地域)での自治運動については、昨年に紹介した。

「西クルディスタンはどうしているか シリア「蜂起」の背後で」 (前) (中) (後)

「後編」で書いたように、2012年7月19日以降に、シリア政府軍がシリア北部のクルド地域から撤退し、コバネ、デレク、アムーデ、エフリン等がクルドの勢力下に置かれた。その後、8月2日にはNCC(クルド国民調整委員会)が、西クルディスタンの諸政党・諸団体からなる「民主的変革のための国民調整委員会」として再組織される(英語ウェブサイトウィキペディア英語記事を参照)。クルド民主統一党(PYD)は、自治区の包括的運動ネットワーク「民主的共同体運動」(Tev-Dem)の政治部門として位置づけられ、一部の政治活動家に留まらない、住民の文化的・社会的な動員が図られている(北沢洋子「シリアのクルド人」2013年1月31日、 Rozh Ahmad, The Kurdish Rebellion in Syria: Toward Irreversible Liberation, 23 Jan. 2013)。また選挙も行われ、「西クルディスタン人民会議」(WKPC)と名づけられた議会および対応する行政機能が形成されている。自由シリア軍(FSA)やヌスラ戦線からの攻撃を受けるも、クルドの「人民防衛部隊」(YPG)は今日まで自治区を守りつづけている。

FSAやジハード主義者、それに諸外国の「反体制派支持者」たち(とくに米国やトルコ)は、アサド政権を支援しているとか、アサド政権と密約したとか、そのような口実でクルド人を批判している。だが実際には、アサド政権にも、あるいはクルドの権利を認めようとしない反体制派にも、かれらはつかないという、ただそれだけのことである。

他方、自治区がどこまで「自治」を達成しているのかについては、先に挙げた北沢洋子の記事に読める(ただし北沢の記事は、やはり前掲のMonthly Reviewに載ったロジュ・アフマド(Ahmad)の記事に、大部分依拠しているようだ)。

クルドの自治区は完全に独立しているわけではない。現在なお、アサド政権から予算を受け取っているし、また公務員はダマスカスから給料を受け取っている。そのことが、「PYDとTev-Demはアサドの協力者」と非難される理由になっている。またPYDは、Derekのように政府軍と向き合っている地域でも、軍事攻撃を避けている。このことから、アサド政権とPYDの間に、密約があるのではないかと、推測がある。政府軍が、北のクルド人自治区に戦線を広げることを避けているのは、南に軍事勢力を集中出来るからだ、と推測されている。Derek市長のAlliasは「我々は、流血を避けたいと思っている。しかし、そのことが協力者だとは言えない。クルド人は政府軍に無慈悲に弾圧された過去を決して忘れない。多くのクルド人が、アサドの拘置所で拷問され、殺されたことを決して忘れない。また崩壊寸前の政権に協力するほど愚かではない」と述べた。

つまり、自治化した地区においても、地方行政の施設やスタッフが引き継がれているということだ。西クルディスタンの目標が分離独立ではなく自治である以上、これはなんら不思議なことではない。ところで前記事では、「ペンタゴン」が政府とクルド勢力に「共同で」打ち立てられた軍事施設を攻撃すると宣言しているくだりがあるが、これも「ペンタゴン」がそうみなすところの「共同」施設にすぎず、実際には、自治化した地域においてクルド勢力に引き継がれた施設のことを言っているのに過ぎないのではないかと推測される。管見のかぎり、政府とクルド勢力が軍事施設を「共同で打ち立てた」という情報は出所不明である。

昨年8月2日、PYDの外務局は、国際社会に西クルディスタンの自治への支援を求める声明を発している。この声明では、「自由で民主的な、多元的に統一されたシリア」(a free democratic and plural united Syria)の建設に貢献することを宣言し、「シリアのすべての革命家」への「安全な避難所」を提供しうると述べられていた。しかしながら、これは国際社会に無視され、とくに米国とトルコからは「分離主義」または「PKKのテロリスト」のたわごととして、敵意をもって迎えられている(アフマド記事)。この見解について指摘すべきことは三つある。第一に、西クルディスタンの運動とPKKとの協力には歴史的背景があること。第二に、西クルディスタンの運動は分離主義ではないこと。そして第三に、「自由で民主的な、多元的に統一された」社会を真に目指しているのは西クルディスタンであって、トルコや米国が支援している宗派主義的な武装勢力ではないということ。昨年8月3日にカミシュリでデモ主催者たちが訴えたのは、「シリアのクルド地域におけるクルド人、アラブ人、ムスリム、キリスト教徒、アルメニア人、アッシリア人の兄弟愛と同志意識」であり、かれらが「クルド民族」の名において非難したのは「宗派主義的な根拠にもとづく戦争」であった。そのように宣言して自治化した西クルディスタンが、なによりまずFSAから攻撃を受けたという事実は、シリアの「民主主義」に向けた蜂起という大義の空疎さを物語っている。

2. シリア反体制派について

ところで、ヌスラ戦線のテロ活動が突出するようになってから、シリアの反体制運動がテロ集団にジャックされてしまったと、最近はよく言われているらしい。しかしながらFSAが、少なくともその一部が、最初から市民へのテロ行為に訴えていたことは、筆者もすでに指摘したとおりである。FSAが欧米やトルコ、イスラエル、湾岸諸国から援助を受けていることも公然たる事実だ。

アサド政権側の攻撃だけをあげつらい、最近の化学兵器の件のように、誰の仕業かも判明していないことまで全面的に政権側のせいにする、諸国政府やマスメディア。これがシリア政権転覆という目的先にありきのキャンペーンでなくて、一体何なのか。米国の爆撃と過激主義者のテロ攻撃で政権が崩れたあかつきには、イラクやリビアと同様、シリアもまた宗派対立の舞台となり、形式的な代議民主制のもと、バアス党政権下で保証されていた各種の社会的権利も抹消され、シリア人民はむき出しの暴力により沈黙と困窮を(少なくとも現政権よりも悪い状態を)強いられることになるだろう。

シリアの土着的、民衆的な革新勢力と連帯したいと望む者は、西クルディスタンと反体制運動との関係をよく見るべきだ。すでに昨年に解説し、上でも指摘したことと重複するが、シリア国民会議(と言ってもイスタンブールに置かれた、国内に根をもたない亡命者の寄り合いだが)はクルドの自治権を否定している、それもあって、西クルディスタンは政権にも反体制にもつかない、独立した路線を選んでいる。そもそも、自治宣言した西クルディスタンを攻撃しているのは、政府軍よりも、(前述のとおり)反体制勢力である。いまだ自治化の準備段階であった昨年6月から、すでにFSAは西クルディスタンに攻撃をしかけてきており、10月にはシェイフ・マグスド(Sheikh Maqsood)地区など自治区の複数地域でFSAとの大きな衝突が起きているし、その後も自治区は、FSAやヌスラ戦線の攻撃にさらされている。

こうした問題を無視して、アサドだけを悪魔化するのは、民衆的な国際連帯を目指す者がすべきことではまったくない。

3. クルド民族運動の二つの路線

ところで、西クルディスタンの自治運動について気づくのは、南クルディスタン(イラク)の自治政府との違いである。自治化への経緯、自治運動としての目標、これらにおいて両者は対照的だ。昨年の記事で筆者は、南クルディスタンの路線を「現実主義的」と、西クルディスタンの路線を「民主的・社会的」と形容し、このように書いた。

南クルディスタン自治政府の、とりわけマスウド・バルザーニーのスタンスには、現実主義的あるいは機会便乗的な傾向があるように見える。そもそも自治区の獲得が、アメリカがイラクで行った帝国主義戦争の副産物でしかなかった以上、自治政府がアメリカをはじめとする帝国主義陣営から真に独立した戦略をとることは、ほとんど考えられない。現実主義の問題は、それが真に現実的かどうかというよりも、それがつまるところ政治主義的で、より根本的な変革や権利拡大をむしろ妨げうるという点にある。なるほどバルザーニーの諸政策が、クルド自治区の何らかの利益を代弁しようとしていることは間違いない。だがそれは、開発主義あるいは利益誘導(欧米資本の誘致)であり、しかもその専断的なやりかたにたいする批判が強まっている。南クルディスタンにおいて支配的な現実主義や便乗主義が、どの程度の影響を西クルディスタンに及ぼしてきたか、また及ぼしうるかについては定かではないが、いずれにせよPYDとKNC〔南クルディスタンに本部を置く西クルディスタン解放勢力のひとつ〕の統一ないし連合においては、安易な現実主義路線は避けられるべきだろう。

他方、PYDおよびPKKの基本アジェンダが自治および連邦制にあることは……見てきたとおりである。PKKが2000年代にこのような路線に転換したことには、国家独立そのものが難しいという現実主義的な理由も、もちろんあるだろう。だが連邦制の構想そのものは、機会主義的な戦略ではまったくない。獄中のPKK党首オジャランの獄中出版をはじめとして、北クルディスタンでは、クルディスタンの民主的・社会的な自治の条件や方途にかんする議論が積み重ねられており、その実現のための北クルディスタンの諸団体の包括組織である「民主的社会会議」(Democratic Society Congress)が、2011年に立ち上げられるところまで来ている。そしていま、南クルディスタンではなく西クルディスタンで、そうした自治構想を実現していく可能性が、不安定であれ生じつつある。この構想が実際にはどのように、またどこまで実現されうるのかは、安易に予想でることではない。だが少なくとも、欧米および(クルド以外の)中東諸国家の影響を排した自治化を実際に進めている点において、これまでのところPYDは一貫している。

その後においても、西クルディスタンにおける「民主的・社会的路線」の優位は維持されているようだ。北沢 (が参考にしているアフマド)もこのように報告している。

PYDは、これまでのクルド人政党のように、クルド人地域全体のすべての様相を直接コントロールすると言うのではなく、むしろ幅広いネットワークである「Tevgara Jivaka Democratic(民主的共同体運動Tev-Dem)」の政治部門に過ぎないと考えている。Tev-Demは「民主的社会運動」だと位置付けている。PYDは、人びとを政治的に組織するが、一方Tev-Demは、地域の青年、女性、労組、クルド語学校などのセンターに依拠して、人びとを文化的に動員している。……上記の2つの組織の関係について、PYDの共同代表であるAsia Abdullaは、「党がシリアのクルディスタン地域の民主革命を政治的にリードし、一方Tev-Demは社会運動を組織する。我々は民主的な社会を下から構築する」と解説している。

クルド人地帯には、Tev-Dem運動とPYD/WKPCの他に、いくらかの少数政党がある。15団体が集まって、「クルド国民評議会(KNC)」を名乗っている。しかし、KNCは現場との関係がない。にもかかわらず、KNCはTev-DemやPYD/WKPCに対抗する勢力だと自認している。なぜKNCが弱いかと言うと、参加している政党が分裂を繰り返していることにある。例えば、KNCの有力メンバーである「シリア・クルド民主党(al Party)」は、最も古いクルドの右翼政党だが、現在は、3つに分裂し、それぞれ同じ名前を名乗っている。……PYD/WKPCとKNCとの間には、大きな違いがある。KNCは、ネオ・リベラル路線をとっており、その代表は、国外で米政府の代表やトルコ当局と会合している。一方、PYD/ WKPCの政治哲学は、トルコのPKKの創設者Abdulla Ocalanのイデオロギーに依拠している。しかしPYDがPKKのシリア支部にすぎないという米・トルコ政府の中傷に反対している。

以上を踏まえて、より直截に、クルド自治運動内の右派路線と左派路線という表現を使ってしまってもいいように思える。PYDが主導する、近年のPKK型の路線においては、政治的な自治化と、クルド人民の下からの(政治的のみならず)社会的・文化的な組織化とが、平行して進められている。他方、南クルディスタン型の、KNC(クルド国民会議、南クルディスタンに本部を置く)が実践している路線においては、「米政府の代表やトルコ当局との会合」が、上からの政治と利益誘導が優先される。

すこし脇道にそれるが、先月21日に行われた南クルディスタンの議会選挙(1991年の蜂起のさいに行われた選挙以来、自治区で初のもの)では、2009年にクルディスタン愛国党(PUK)から分立したゴラン(Gorran、変革党)が、PUKを追い抜き、第二党へと浮上した(Kamal Chomani, Iraqi Kurdistan’s historic election, 29 Sep. 2013)。クルディスタン民主党(KDP)は第一党の地位を守ったが、KDPとPUKが自治区の中枢を分有する二頭体制への異論が、相当に高まってきたということだ。KDPおよびPUKは、1991年の蜂起以来、内紛状態にあったのを、1998年にワシントンで仲介してもらって以来、イラク戦争以降は米国のバックアップで実効的な自治区の設立にまでいたった。しかしながら、マスウド・バルザーニーのもとで進められている、外国資本の大々的な誘致による開発優先政策の結果、官職・要職についた両党人士の利権癒着、腐敗が進行している(もちろん先進諸国は自治区との投資・パートナーシップ作りに熱を上げており、たとえば日本では平沼赳夫を会長とする「日本クルド友好協会」がそうした動きの代表である)。この状況への下からの不満が高まっており、ゴランはこの不満を引き受けるかたちで勢力を伸ばしているのだ。今後、南クルディスタンの自治区は、さらなる民主的改革へと進んでいくかもしれないし、近い未来にはそうならないかもしれない。外国資本が大規模に投入されている以上、現在の体制は先進諸国からの大きなバックアップを受けられるだろうが、逆に腐敗が目にあまるようになれば、諸外国は体制ではなく変革勢力に支持を転じるかもしれない。いずれにせよ、米国を中心とした先進資本主義・帝国主義陣営の支えを頼みにした「自治」の限界が、南クルディスタンでは、じょじょにであれ露呈されつつあるように見える。

西クルディスタンの自治区では、下からの社会的・文化的な組織化を最重視するPYD-PKKの路線が、主導的でありつづけている。これにたいして、米国やトルコなど(要するに、NATO側で中東に利害を有する国)は、またそれに支援されたシリア「民主化」「反体制」勢力は、無視、悪宣伝、攻撃をもって応えてきた。帝国主義的な「民主主義」と、下からの民衆的、自律的な民主主義との対比が、これほど鮮明に現れている事例は、なかなかないように思える。これはシリア「反体制」勢力支持派にはとても都合の悪いことであるから、西クルディスタンがイスラム過激派に攻撃されている報道を見ても「アサドとの密約」の兆候としてしか読まない、ある薬莢の臭いの漂うジャーナリストのような反応もでてくるのだろう。他方、クルド人ジャーナリストの中でも、米国のシリア軍事介入が西クルディスタンの利益になる、またはなる可能性があると考える手合いはいる(たとえば Sabah Salih, How Could an American-Led Attack on Syria Benefit the Kurdish Cause? 30 Aug. 2013)。こうした声は、クルド運動の全体を代弁するものではなく、クルド運動にも左右の分岐があるということの例証として捉えるべきだろう。筆者は西クルディスタンの路線を支持する。

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【翻訳】 米国のシリア軍事介入にたいするクルド人の態度

シリアにたいする米国の軍事介入の切迫した危機は、ロシアが提案しシリアも同意した、国連の監督下におけるシリアの化学兵器廃棄に、米国が同意したことで、さしあたり回避された。とはいえ、今後また米国が何を口実にシリアへの軍事介入に踏み出そうとするか分からないので、ありうる米国の軍事行動の目的や展開に釘を指すためにも、先月の記事を翻訳することにも意味はあると思われる。筆者は西クルディスタン(シリア内クルド地域)との関連でシリア情勢を考察してきたので、今回もクルド民族運動からの報告を紹介する。

【以下翻訳記事】

米国のシリア攻撃にはクルドのPYD勢力およびジハード主義者も含まれている PKKより

By Hawar Abdul-Raza, on Sep. 5, 2013, in EKurd.net: http://www.ekurd.net/mismas/articles/misc2013/9/syriakurd898.htm

今後ありうる米国のシリアへの軍事攻撃では、シリア国内のクルド勢力や、アルカイダと結びついたヌスラ戦線のようなジハード主義者も標的にされているようだ。クルディスタン労働党(PKK)に近い情報筋より。

政治面でPKKの一翼を担うKCK(クルド共同体連合)のスポークスマン、ザグロス・ヒワ(Zagros Hiwa)は、この報告を受けて、ワシントンのシリア軍事介入を支持しないと述べた。
バーシュニュース(BasNews)が入手した情報によると、米国の標的は三つ。シリア政権軍。シリア・クルディスタンでのPKK の一翼と見なされている、クルド民主統一党(PYD)に属する軍事勢力。シリア国内でのテロ行為のかどで非難されており、またイスラム主義組織アルカイダと密接につながっている、ヌスラ戦線。

「外部からの介入は、シリア人民のためではなく、外国の政治課題のためにしかならない」と、PKK の拠点のあるガンディル山から、ヒワは語った。

〔8月30日〕金曜に米国のジョン・ケリー国務長官は、シリアでの化学兵器使用の証拠を公開し、米国の軍事介入の必要を強く主張した。

ケリーは声明において、シリア政権が化学兵器を使った証拠や事実とかれが呼んでいるものにたいして、米国の諜報部は「強い確信」をもっていると述べたうえで、「問題はそれに一体どう対処するかだ」とつけ加えた。

過激主義ヌスラ戦線は米国の軍事行動における第三の標的だと言われており、シリアのクルド人の報告によれば、「この攻撃は、2003年のイラク・クルディスタンにおける、アンサール・アル・イスラムへの米国の攻撃と似たものとなるだろう」。

ペンタゴンの攻撃はまた、アサド軍とPYD軍が共同で打ち立てた〔訳者: この点は別途解説〕軍事拠点・施設や訓練キャンプを、また西クルディスタン(シリアのクルド地域)で最大の街カミシュリにある空港を狙うだろう。

PKK に近い情報筋によれば、現在PKK軍は、米国の攻撃の可能性に備えて、自衛のために組織の態勢を固めなおそうとしているところだ。

アラブ世界および欧州における米国の同盟諸国は、国連の調査班がその発見を公表するまで、いかなる軍事攻撃も延期されることを望むとしている。国連のマンデートは、化学兵器が使われたかどうかの判定が目的であって、だれかに責任をなすりつけるためのものではない。国連高官は、調査班の仕事を促進する一方で、手続きの公正さを保護しようと努めてもいると語っている。

イラクのクルド人政治専門家ジュテヤル・アデル(Juteyar Adel)は、シリアのクルド地域にたいする米国の攻撃の狙いはPYDにあると、バーシュニュースに語った。

「もし同地域が米国に攻撃されれば、PKKはそこでの影響力を失うだろうし、トルコは喜ぶだろう」と、アデルは述べた。

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西クルディスタンはどうしているか シリア「蜂起」の背後で(後)

中編を書いてから数日とたたないうちに、西クルディスタン(シリア北部)の情勢は大きく動いた。7月19日から約一週間のあいだに、シリア政府軍がシリア北部のクルド地域から撤退したのである。結果、コバネ、デレク、アムーデ、エフリン、サリ・カニ(Kobane, Derek, Amoude, Efrin and Sari Kani)がシリアのクルド勢力下に置かれた(Liberated Kurdish Cities in Syria Move into Next Phase, Rudaw, 2012.7.25)。この新たな局面の暫定的な分析をもって、本記事を差し当たり終える。

4. 西クルディスタンの自治化をめぐって

この件に関する日本語の報道は、例によって断片的である。毎日新聞の7月27日記事は、この件でトルコが警戒を強めている点を強調するものとなっている。論点は大別して3つ。1. トルコのエルドアン首相が同地域への介入をも辞さないと表明したこと。2. 北クルディスタン(トルコ)からPKKのゲリラ兵や、南クルディスタン(イラク)自治区のペシュメルガ(軍)が、西クルディスタンに入り込んでいると言われていること。3. 西クルディスタンは「政府軍が戦闘の激化した首都やアレッポ市などに移動した隙を突いた」こと。

1はともかくとして、2は、PKKの関与については以前からシリアの「クルド民主統一党」(PYD)が公言していることであるが(中編参照)、その一方でイラクのペシュメルガについては事実ではない。とはいうものの、クルド自治政府の国境沿いでは、シリアからのクルド難民が軍事訓練を受けていることが、公式に発表されているように(Iraqi Kurds train their Syrian brethren, aljazeera, 2012.7.23)、自治政府からの軍事的協力そのものはすでに進んでいる。3についても、やはり正確ではない。中編でも論じたように、2011年以降の情勢のなかで、シリア政府とクルド勢力とのあいだには一定の暗黙・非公式の「戦略的妥協」が作り出されてきた。今回のクルド地域からのシリア政府軍撤退も、その一環と見るべきだろう。実際いくつかの街では、軍だけでなく警察や行政機能さえ、すでに撤収を終えている(State workers leave the city, Kurd Watch, 2012.7.24)。

シリア政府と反体制派との内戦への不介入および政府との「戦略的妥協」のもとで、西クルディスタンの自治化を準備してきたのは、トルコPKKの姉妹組織PYDである。政府軍や「自由シリア軍」(FSA)がクルド地域を戦場にしないよう、PYDは武装治安部隊を独自に組織化している。実際、先日に政府軍とのあいだで衝突があったようだ(Clashes between Kurds and Syrian army in the Kurdish city of Qamişlo, Western Kurdistan, Ekurd.net, 2012.7.21)。くわえて、イラクのクルド自治区に本部を置く「クルディスタン国民会議」(KNC)もまた、PYDと50:50の割合で統治に参加している。西クルディスタン解放に先立って、すでに7月11日にはPYDとKNCが、イラク・クルド自治区のエルビルで、自治区大統領マスウド・バルザーニーの後見のもと、自治区の共同統治にかんする合意を結んでいる(Liberated Kurdish Cities …)。

しかしながら、西クルディスタン内部においても亀裂が潜在している。時間は前後するが6月末、PYDの武装部隊がKNC勢力のデモを鎮圧するというできごとがあった(PYD uses force to prevent demonstrations, Kurd Watch, 2012.7.6)。PYDとKNCの対立や衝突の存在は、以前からいくつかの記事でほのめかされていたが、筆者の思っていた以上に対立は激しくなっていたようである。さらには7月初頭にエフリンで、PYD支持者とKNC支持者とのあいだで衝突が起き、そのなかでPYD側の1人が殺され、その数日後には報復として、今度はKNC側の2人が殺されるという事件まで起きている(Father and two sons kidnapped and murdered by the PYD, Kurd Watch, 2012.7.21)するとさらにKNC側は「自由シリア軍」(FSA)にたいして、PYDが「反政府デモを弾圧」したと報告し、PYDとの衝突を招いた(Danger of Kurdish Civil War in Syria, Rudaw, 2012.7.8)。この対立が「どろどろとした」「マフィア風の」クルド的「派閥政治」の表れであるという、やや悪意の込められた見方もあるが、「マフィア風」かどうかは別としても、一部での派閥的な対立が激化していったという経緯は考えうる(Syria’s Kurds Play The Long Game, Ostomann, 2012.7.21)。だが経緯はどうあれ、自由シリア軍という西クルディスタンの自治の協力者ではありえない武装勢力を呼び込むことがきわめて危険なことは、まちがいない。シリアの内戦のはじまりから1年半、これまで西クルディスタンが守ってきた内戦からの独立が水泡に帰すことにすらなりかねないからだ。ちなみにFSAのリアド・アル・アサドは、今回あらためて西クルディスタンの自治権を否定しており、さらには、クルドにはFSAを支持するかPYDを支持するかの二択しかないとほのめかしている(Leader of Free Syrian Army Says No Kurdish Region Allowed to Establish in Syria, Rudaw, 2021.7.31)。

11日エルビルにおけるKNCとPYDの合意以後も、対立が克服されているようすはない。たとえばRudawの前記事では、PYDがクルド国旗(全クルディスタン地域共通の)以外にPKKの旗を使うことに、KNCが反対しているが、それが聞き入れられないとされている(Liberated Kurdish Cities …)。中編でも触れたように、KNCおよびイラクの自治政府が、PYDとPKKのつながりを快く思っていないことは確かだ(1990年代前半にPKKがイラクKDPに対立しPUKの側について以来)。だからといって自治政府は、PYDを排除しようとしているわけではなく、むしろKNCとPYDの協力関係に貢献してきた。また、現状における両勢力の実際の立ち位置が異なるわけでもない。PYDのみならずKNCも、シリア反政府勢力がクルドの自治権の法的承認を確約しないかぎり、イスタンブールの「国民会議」には協力しないという姿勢を保っている。PYDとKNCの統一または連合が、西クルディスタンの未来にとって重要であることは、当人たちが認識している。

そうだとすれば、PYDとKNCの根本的な違いはどこにあるのだろうか。また、それはどのような意味をもつのだろうか。

5. 現実主義の問題とクルディスタンの未来

PYDとKNCの対立は、とうぜんながら両者がとる政治路線の違いに起因する。また両者の路線が、それぞれを主要にバックアップしているトルコPKKの路線とイラク・クルド自治政府とにおける路線の違いに影響されていることも、疑いを容れない。(すでに前編・中編で見たように)PYD-PKKがより社会主義的な解放と自治のアジェンダをもっているのにたいして、KNC-自治政府の路線はより現実主義的で無原則的に戦略を選んでいると、おおまかに言えるように思える。

見たところ保守的スタンスのあるブログ(有名なようだ)に、「シリア問題から西クルディスタン(Western Kurdistan)出現の可能性」という記事が上げられているのを見つけた。この記事では、西クルディスタンの現況において、「シリア内でのクルド人を巻き込んだ紛争の激化よりも、イラク北部の自治区がこれをきっかけに、バグダッドのイラク政府と離反した軍事活動に出る」可能性が、すなわち、それが「イラク崩壊の引き金にもなりかねない」点が重要だとしている。しかしながら、バルザーニー自身の抱いている長期的展望のいかんは別としても、現況がそのような「イラク崩壊」やクルディスタン全体の分離独立へと直接的に発展する可能性はまずないだろう。

イラク・クルド民主党(KDP)党首および自治区大統領であるマスウド・バルザーニーがことあるごとに、自治区の分離独立のカードでイラク中央政府を脅していることは知られている(たとえば『中東エネルギー。フォーラム』「激しい口調でマリキ・イラク首相を非難したクルド自治政府のマスウド・バルザーニ大統領」2012.3.23参照)。だが、バルザーニー自身が何を考えているかと、その実現可能性とは別である。かれはこのカードを、実際には中央政府から譲歩を引き出すための交渉手段として用いられているにすぎないように思える。バルザーニーの目的は石油の採掘権であり、自治区の領域のキルクークへの拡大というイシューも、この目的と結びついている。

南クルディスタン(イラク)の諸大国への依存を考慮に入れれば、自治政府が一足飛びに分離独立へと踏み切ることは、ますます考えにくくなる。党首ジャラル・タラバーニーを中央政府大統領として送り出しているクルド愛国党(PUK)は、自治区の分離独立が時期尚早であるという見解を再確認しているが、その理由が実にあけすけである。自治区内の反対派(後述)が、KDPもPUKもクルド独立の機会をこれまでに何度も逃してきたと批判したことにたいして、PUKのスポークスマンはこう答えている。「KDPとPUKが知っていることを反対派は知らないだけだ。PUKは世界の36の諜報機関と関係をもっており、それはKDPも同じだ。われわれは世界で状況が日々どう進んでいるのかを理解している」(Considering The Kurdish State, Rudaw, 2012.7.26)。1990年代以来イラク戦争後まで一貫して、KDPとPUKはアメリカに支えられてきた(両党とも、1992年にCIAの後ろ盾で結成された「イラク国民会議」に、はじめから参加していた)。もちろん機会さえあれば、両党ともアメリカや西欧諸国を出し抜こうとはするだろうが、しかし同時に、そうした帝国主義陣営の意図の思惑を大きく逸脱することは後ろ盾を失う危険を招くということも、とうぜんながら分かっているはずだ。そうだからこそ、このような発言が出てくるわけである。したがって、帝国主義陣営がクルディスタンの完全独立に利益を見出さないかぎり、KDPやPUKがその実現に本気で踏み切ることはまずないだろう。

対外的のみならず対内的にも、KDPとPUKの二大政党にたいする自治区からの批判の声の高まりがある。自治区内の反対派として2009年に結党されたゴラン(Gorran、変革運動の意)は、KDPとPUK双方の腐敗を批判し、同年の自治区議会選挙で一期に第二党へと躍り出ている(同党ウェブページWikipedia英語記事)。ゴランはクルドの国家独立も目標に含めているが、なによりまずイラク・クルド自治区内での改革を追求している。このゴランに批判されているようなKDPおよびPUKの「腐敗」は、たとえばバルザーニーの専断政治において顕著である。最近も、自治区の「クルディスタン諸陣営連合」( Kurdistan Blocs Coalition)から次のような批判の声が出た。「イラク議会や自治区議会には、バルザーニーを問う権利はなく、説明のための質問しかできない」(Iraq and Kurdistan Region’s parliaments don’t have right to question Barzani, says Kurdistan Coalition, AK News, 2012.7.30)。

南クルディスタン自治政府の、とりわけマスウド・バルザーニーのスタンスには、現実主義的あるいは機会便乗的な傾向があるように見える。そもそも自治区の獲得が、アメリカがイラクで行った帝国主義戦争の副産物でしかなかった以上、自治政府がアメリカをはじめとする帝国主義陣営から真に独立した戦略をとることは、ほとんど考えられない。現実主義の問題は、それが真に現実的かどうかというよりも、それがつまるところ政治主義的で、より根本的な変革や権利拡大をむしろ妨げうるという点にある。なるほどバルザーニーの諸政策が、クルド自治区の何らかの利益を代弁しようとしていることは間違いない。だがそれは、開発主義あるいは利益誘導(欧米資本の誘致)であり、しかもその専断的なやりかたにたいする批判が強まっている。南クルディスタンにおいて支配的な現実主義や便乗主義が、どの程度の影響を西クルディスタンに及ぼしてきたか、また及ぼしうるかについては定かではないが、いずれにせよPYDとKNCの統一ないし連合においては、安易な現実主義路線は避けられるべきだろう。

他方、PYDおよびPKKの基本アジェンダが自治および連邦制にあることは、前編や中編で見てきたとおりである。PKKが2000年代にこのような路線に転換したことには、国家独立そのものが難しいという現実主義的な理由も、もちろんあるだろう。だが連邦制の構想そのものは、機会主義的な戦略ではまったくない。獄中のPKK党首オジャランの獄中出版をはじめとして、北クルディスタンでは、クルディスタンの民主的・社会的な自治の条件や方途にかんする議論が積み重ねられており、その実現のための北クルディスタンの諸団体の包括組織である「民主的社会会議」(Democratic Society Congress)が、2011年に立ち上げられるところまで来ている。そしていま、南クルディスタンではなく西クルディスタンで、そうした自治構想を実現していく可能性が、不安定であれ生じつつある。この構想が実際にはどのように、またどこまで実現されうるのかは、安易に予想でることではない。だが少なくとも、欧米および(クルド以外の)中東諸国家の影響を排した自治化を実際に進めている点において、これまでのところPYDは一貫している。

筆者は、PYD・PKKがクルド独立国家の希望を完全に放棄したと判断しているわけではないし、どのような自治や独立をクルドが目指すべきかについて具体的な提案したいわけでもない。だが、KDPやPUK(シリアKNCも?)の現実主義・機会主義よりも、PYDやPKKの追求する社会的自治の拡大路線のほうが、長期的にはクルドの諸権利の発展により寄与するように思える。もちろんPYDがみずからの路線をKNCにたいして力づくで貫くようなことは望まない。ただ、安易な現実主義をこえて西クルディスタンが結束を作り出せたとき、クルディスタン全体の将来の結束へのよりよい展望も開けるのではないだろうか。

本記事に着手した当初の目的は、シリア情勢にかんする「民主主義」陣営の支配的観点を相対化することであったが、けっきょくクルド問題の考察としての比重が高くなった。とはいえ、そもそもクルド問題もまた帝国主義の一所産であり、そのなかでもかなり複雑な部類に入る。イスマイル・ベシクチはクルディスタンを「多国間植民地」としたが、今日にいたるまで中東が欧米諸国にほんろうされつづけていることを踏まえれば、植民地内植民地と呼んだほうがよりふさわしいようにも思える。トルコ・シリア・イラク・イランがそれぞれにクルディスタン諸地域を抑圧してきたのだとしても、そのような分割と抑圧の構造そのものは、第一次大戦後のセーヴル条約およびローザンヌ条約をつうじて、英仏をはじめとする西欧列強がこしらえたものだった。もちろん、こうした構造をいかに乗り越えていくかは、クルドやほかの中東諸人民じしんに懸かっている。ただしかれの仕事は、外交的および経済的な優位のもとでいまだに中東をほんろうしている、帝国主義陣営の圧力がなければ、長期的にはよりよく達成されることだろう。帝国主義陣営内の人間が中東にできる貢献は、人道介入ではなくてその批判である。

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西クルディスタンはどうしているか シリア「蜂起」の背後で(中)

前編では、1920年代のクルディスタン分割以後の西クルディスタン(シリア内)の小史を翻訳紹介した。続いてここでは、2011年以来のシリア内戦の渦中におけるクルド人の動向に光を当てたい。

2. シリア内戦の渦中で

まずシリアの情勢だが、武装勢力と政府軍の衝突がはじまったのが、2011年3月(市民的抗議はそれ以前からあったが)。シリア国外のさまざまな亡命者や反政府勢力からなる「シリア国民会議」がトルコ・イスタンブールで正式に立ち上げられたのが、同年10月(この頃までには、NATO諸国やイスラエル、湾岸アラブ諸国の介入も公然化した)。国連和平プラン(アナン・プラン)が進められたのが今年の2-3月、停戦に入ったのが4月、ふたたび戦闘がはじまったのが5月末。その一方で、西クルディスタンの主要な諸団体・勢力は現在まで、政府側、反政府側のどの組織とも最終的な協力関係を結んでいない。

2011年のあいだ、西クルディスタンは内戦から距離を取りつづけてきた。短絡的な観察者は(そしてシリアの反政府武装勢力も)、「反アサド」に加わるか、さもなくば「親アサド」かという二者択一を押しつけてくる傾向にあるが、もちろんそのような見方はまったく現実的ではない。クルド人たちは以前から政権や現制度に抗議してきた。かれらがシリア「国民会議」に加わらないのは、たんに、この組織と協力しても西クルディスタンの地位が保証されそうにないからである。

前編でも取り上げたブラウンス(Brauns)の記事にもあるように、西クルディスタンでの抗議・抵抗運動は2000年代に活発化している。シリア現政権は当初、これに苛烈な弾圧をもって応え、2008年には西クルディスタンのさらなるアラブ化を進める「通達49」を布告した。ところが2011年、チュニジアからアラブ諸地域に蜂起が広がるのを見て、政権はこの通達を3月に撤回する。さらに4月にはバシャル・アル・アサドが、1962年の人口調査と大統領通達で市民権を剥奪されたクルド人たちとその子孫、約20万人の市民権を回復させた(ブラウンス記事)。こうして結果的には、西クルディスタンは現政権から一定の譲歩を引き出すことに成功している。だが、このことをもってかれらを親アサドと見なすには、あまりに無理がある。端的に言って、それは意図的、政治主義的な曲解でしかない。

昨年11月の時点でも、西クルディスタンはまだ静かであった。「クルド民主統一党」(PYD)のある活動家は、これが「戦術的選択」であると表明している。すなわち、いま政府との武装闘争に加わるのではなく、西クルディスタンの組織化に力を注ぎ、現政権が倒れたあとに備えるという意味だ。また同党は、現在のシリア情勢に外国が介入することにも、はっきりと反対している(We Oppose Foreign Intervention in Syria, Rudaw, 2011.11.13)。

イスタンブールの「国民会議」(SNC)にたいしても、西クルディスタンは当初から懐疑的なまなざしを向けていた。あるクルド人作家は、「いま起きようとしているシリアの変化を、ムスリム同胞団は自分たちのために利用しようとしている」と非難し、またその拠点を提供しているトルコ政府をも批判している。自国のクルド人にたいするトルコの抑圧の歴史を思い出すとき、シリア「左翼クルド党」の活動家のつぎの一言は、まったくもって妥当である。「自国の2500万人のクルドに権利を与えないトルコが、どうすればシリア人民とシリアのクルド人の権利を守れるというのか」。こうして、イスタンブール「国民会議」への呼びかけを、西クルディスタンの大半の政党や組織はボイコットした(Most Syrian Kurdish Parties Boycott Opposition Gathering, Rudaw, 2011.8.29)。

それどころか、イスタンブールのSNCと向こうを張るように、その正式発足とほぼ同時期の2011年10月には「シリア・クルド国民会議」(Kurdish National Council in Syria: KNC)が、イラク・クルド民主党のマスウド・バルザーニー(Massoud Barzani)の後援により、イラク・クルド自治区内のエルビル(Erbil)で立ち上げられている(From Carnegie Middle East Center, またKNCのウェブページ)。KNCはSNCとも交渉をもっているが、KNCの基本的要求である連邦制を、SNCは現在にいたるまで受け入れていない。今年3月末の会議で両者は決裂しており(Rudaw, 2012.4.7)、同じことが今月初頭のカイロでの会議でも繰り返されている(毎日新聞、2012.7.4)。とくにカイロの会議にさいしてKNCは、SNCがクルドを概念として認めていないとして、議場を退出している(Kurds walk out in protest over nationality, Ekurd.net, 2012.7.4)。

最後に、今年6月にSNCの議長を引き継いだ、アブドルバセト・シーダ(Abdulbaset Sieda)についても言及しておかねばなるまい。シーダはシリア・ハサカで生まれたがのちにスウェーデンに亡命したクルド人で、かつてはダマスカス大学にポストをもっていた学者である。かれの前任者ガリウン(Ghalioun)がその座を退いたのは、国内民衆を代表していないとして、クルドのみならず他のシリア国内諸団体からも非難されたためであった。そのような経緯から、クルド人であるシーダが、「融和」を象徴する人物として選ばれたのだろうと見られている(Profile: Syria’s Abdulbaset Sieda, Al-Jazeera, 2012.6.10)。しかしながら、その経歴から明らかなように、シーダはシリア国内の現在のクルド諸勢力と直接の結びつきをもたない。かれはPYDやKNCからも、西クルディスタンを代表していない、トルコの政策に追従している、等の理由で非難されている(Kurds Wary of New Syrian Opposition Leader, Rudaw, 2012.6.12)。実際にシーダ自身が、連邦制の要求は(SNCに)不安や不和を引き起こすので、現段階では時期尚早と主張しており、「民族自決」を具体的制度の構想ではなく「原則」として確認するに留まっている(New SNC Leader: Talk of Federalism Causes Fear and Anxiety, Rudaw, 2012.6.19)。

(ちなみに、「クルドニュースBlog」で、昨年末から4月までのニュースが日本語で集中的に紹介されているのを見つけた。なぜ4月で中断されているのかは不明だが、この時期の報道を追うことには役立てられる。)

3. 西クルディスタンの諸勢力

その基本的要求がシリア内でのクルドの権利拡大であり、その政治的保証としての連邦制であるという点では、上述の西クルディスタン諸勢力は、おおむね共通している。ただし、情勢との関連における立場づけや戦略の面では、西クルディスタン内諸勢力も一枚岩ではない。

まず歴史的前提として、つぎの2点は押さえておくべきだろう。第一に、隣接する他のクルディスタン諸地域からの影響。前編の小史にあったように、西クルディスタンのクルド人のなかには、隣国からの難民が多くおり、また1980年代からは特にトルコのPKKとの関係が強くなった。第二に、西クルディスタンにおける諸政党の分立は、基本的には地理的理由によるものであるという点。ブラウンスによれば、1957年創設のシリア・クルド民主党に由来する諸政党が現在17以上存在するが、それらの綱領に特別大きな差異があるわけではない。西クルディスタンの諸地域は飛び地状になっており、またパルティザンのための避難地となりうるような山あいの場所がなかったために、諸政党はこのように分立せざるを得なかった(ブラウンス記事)。

2003年創設の民主統一党(PYD)は、PKKと密接な協力関係にあり、それがPKKの利益への追従、さらには「親アサド」とされるPKKへの追従、と見なされることもあるようだ。だがPKKとの協力(国境地域の実効統治への準備などにおける)はPYD自身が公言していることであり、PYDが陰でPKKとなにかを共謀しようとしているというわけではない。PKK側の意図もまた、トルコ政府のシリア情勢へのあからさまな介入を牽制しようとするものであり(トルコがシリアに進軍するなら、PKKはトルコ国内で大規模な戦闘を始める、としている)、外国政府の介入反対というPYDの姿勢と矛盾はない(ブラウンス記事)。PKKがある時期、「トルコ政府にたいする切り札」としてシリア政府にかくまわれていたという点はあるが、しかしその関係も1990年代には終わっており、この点からPKKを親アサド勢力と断ずることはできない。なにより、PYDとPKKは「民主的社会主義」や「民主的連邦制」といった共通のアジェンダを追求している。

なお、SNCにたいするPYDの態度は、大筋では前節のとおりだが、今年7月初頭のカイロ会談では、歩み寄りへの姿勢も見せている(Kurdish PYD party agrees on transitional government in Syria, Ekurd.net, 2012.7.4)。ただしそれは、この会議についてはトルコの影響が薄く、また国際介入をめぐるものではあれ、軍事介入とは別の路線(アナン和平プランに代わる)を主題としたものであったためかもしれない(それゆえにだろうが、シリア自由軍はこれをボイコットしている)。

イラクのバルザーニーの後援のもとに立ち上げられたクルド国民会議(KNC)もまた、シリアにおける連邦制の要求という点では、基本的にぶれていない。先のカイロ会談では、KNCは「SNCが革命を乗っ取っている」と痛烈に批判している。この決裂がSNCによる連邦制構想の拒否にあることは、やはり先に指摘したとおりである。ただし、イラク・クルド自治区で発行されているRudawの諸記事が、しばしばPYDとPKKのつながりを強調し、PYDがPKK寄りであることを強調しようとしているところを見ると、少なくともイラクKDPは、西クルディスタンとPKKとのつながりをあまり快く思ってはいないようである。

それとは別にもうひとつ、クルド愛国会議(Kurdish Patriotic Conference: KPC)という組織が、西クルディスタン内諸政党の連合というかたちで、やはり昨年10月に立ち上げられている。これはどうやらシリア国内で活動しているようであり、それゆえにKNCとは別の組織と見るべきだろうが、管見のかぎりでは関連情報が少なく、とくにKNCとの関連はよく分からない。この組織は西クルディスタン内での分裂を招いているという批判があり、またその求心力はすでに低下しつつあるという指摘もなされていることを、付言しておく(Kurd Watch, Conflicts with the Kurdish Patriotic Conference lead to division of protest movement, 2011.11.7; The Kurdish Patriotic Conference is nothing more than a name. Compared to the PYD it has accomplished nothing, 2012.3.12)。

後編

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シリアの反政府武装勢力について少なくとも言えること

シリア情勢がますます深刻になり、それとともに諸外国──西欧、アメリカ、イスラエル、トルコ、GCC(湾岸協力会議)諸国──の干渉もますます強まっている。5月25日にはフーラ地区で、6月6日にはクベイル地区で、相次いで大規模な市民殺傷が起きた。いつものように責任の押しつけあいが続く。政府側は反乱勢力の仕業と、反政府側(のうちの武装勢力)および各国マスメディアは政府系民兵とされる「シャビハ」(Shabbiha)の仕業と見なしている。フーラの殺傷事件をめぐって、日本を含む西側諸国は足並みそろえてシリア大使追放を決定し、軍事介入の恐れが一段と高まっている。

内戦という状況のなかで、どの情報が真実に近いのか、また逆にどの情報にどんなバイアスがかかっているのかを、正確に把握するのは難しい。こうした激しい政治的対立をめぐっては、情報の取捨選択ひとつとっても、「どちらの肩をもつのか」という政治的な立場選択に否応なく結びつく、あるいは結びつけて捉えられがちだ。しかしながら、難しいとは言っても、事態の全体像を検証することは可能だし、また必要なことでもあろう。端的に言って、これは革命でも民衆蜂起でもなく、米欧イスラエルおよび中東の親米政権(トルコ・湾岸諸国)とアサド政権との非公式戦争である。

Voltaire Net(Réseau Voltaire)のティエリ・メイサンは、フーラでの市民殺傷を、反政府勢力であるシリア自由軍の仕業と認定している(Thierry Meyssan, L’Affaire de Houla illustre le retard du renseignement occidental en Syrie, 6月2日、また英訳もあり)。かれによれば、事態は次のとおりである。シリア政府は「数週間前からフーラ地区の統制を失って」おり、したがって「シリアの裁判官が現地に赴くことはできない」し、メディアもまた「シリア自由軍の許可と監視なしには取材できない」こと。シリア自由軍が事件の翌日には死体を埋めてしまったので、「国連の監視員は多くの死体の法医学的調査ができなかった」こと。虐殺の前日(24日)の夜に、シリア自由軍「同地域の統制を強化するための非常に広範囲な軍事作戦」を展開していたこと。自由軍はその地域のバース党議員やジャーナリストの関係者や縁者を殺したが、国軍の基地は一つしか陥落させられなかったので、作戦を変え、ワタニ(al-Watani)病院を攻撃し、そこや他の場所の死体をモスクに集めたこと。メイサンは、ワシントンがこれらの情報を調べもせずに、シリア大使追放の口実として用いたことを非難している。また、フーラの件が政府系民兵による仕業だと見なしうる証拠はなく、それどころか「シャビハ」なる民兵の存在は「神話」だと断言している。

もちろん、内戦の混乱の外部にある多くの者には、個々の報道がどの程度まで真実か、意図的な情報操作が含まれていないか、そうでなくともガセネタを掴まされてはいないかどうかを、詳細に判定することはできない。だが少なくとも、国軍と反乱軍とのどちらがどの地区を掌握しているかという程度のことに、白黒つかない検証不可能な風説が出回る余地はなかろう。ある軍が掌握している地域で、敵対する軍が市民だけを大量に殺傷するなどということが可能だとは信じがたい。

他方で、たとえばシャビハなる民兵がでっちあげだという断定については、報道者自身の情報収集および分析の能力を信用する以外にない。筆者は、この報道が総合的に見て誠実なものだと思うし、少なくとも政府側の軍または民兵がこの件に関与した証拠はないとしている点は正しいと判断するが。

とはいえ、シリア自由軍がどのような類の集団であるかについては、もっとはっきりした情報がいくつもある。今年になって、もともとシリアの影響が大きいレバノンにも紛争が飛び火しているが、レバノンのメディア Daily Star によれば、5月に「シリアの反体制メンバー」が、国境付近の街で、3人のレバノン人をアサド政権への協力者だとして、なんと誘拐している。レバノンの親アサド勢力もシリア人を誘拐し、最終的には仲裁者をへて双方の人質交換が成立したとのこと(5月16日記事)。その後もレバノン国境内での誘拐は何度か起きており、最近の一件では、シリア反体制派が「新たな「市民的国家」を樹立したあとで」人質を釈放すると、堂々と宣言している(ロイター6月6日)。

一方的な誘拐ではなく誘拐の応酬なので、もちろんレバノンの親アサド勢力も問題なのだが、それにしても驚くべきは、「革命」のために堂々と他国の市民を人質にとり、かつ「自分たちの政権ができるまで解放しない」と悪びれることもなく宣言するような輩が、シリアの反体制勢力を(少なくとも「シリア自由軍」を)構成しているということである

そもそも、最初からトルコやイスラエルによって武装された「シリア自由軍」が、シリアの民衆を代表しているなどと言えないことはあきらかだ。いまだにトルコ国内からシリアの情勢を動かそうとしている「シリア国民議会」(SNC)も、2011年以前からの国内反体制運動の流れをくむ国民調整委員会(NCC, ただし意図あってかマスメディアは National ではなく Local Coordination Committee と呼んでいるが)から、「手を引くぞ」と非難を受けている(Syria’s Local Coordination Committees Threatens To Withdraw From Syrian National Council, 5月17日)。今年2-3月に国連がアナンをつうじて提示した提示した和平プランはすでに破綻しているが、その原因は、アサド政権にたいする態度の甘さといったことにではなく、このような民衆的でもなんでもない武装勢力を、自由を求めるシリア市民の代表のように扱っていることに見出されるべきだろう。アサドがシリア国民の全体を代表するに値しないとしても、シリア自由軍やSNCがアサドほどにもシリア国民を代表しているとは見なしえないし、シリアの市民の血をこれ以上流させてはならないと望む者にとって、シリア自由軍は期待をかけうる勢力などではあるまい。

ところで、シリア国内のNCCがアンカラのSNCを非難している件には、クルド人のことも関わってくるのだが、それは「西クルディスタンはどうしているか」の続き(後編)で取り上げる。だがそのまえに、帝国主義諸国の介入についてのありうべき批判にかんしても、別記事で指摘することにしたい。

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西クルディスタンはどうしているか シリア「蜂起」の背後で(前)

クルディスタン(クルド人の土地)がおもにトルコ、イラク、イラン、シリアの各領土に分割されていることはよく知られているが、西クルディスタン=シリア内クルドについては、日本語で読める研究や報道がほとんどない。『クルド人とクルディスタン』(中川喜与志、南方新社)、『クルディスタン=多国間植民地』(イスマイル・ベシクチ、つげ書房)、『クルド人のまち イランに暮らす国なき民』(松浦範子、新泉社)などからは、クルド問題全体や、トルコ、イラン、イラクでのクルドの歴史を知ることはできるが、西クルディスタンだけが抜けている。(ウェブ上ではいくつか日本語のニュース記事紹介サイトがあるが、それは追って随所で紹介する。)

そんななか、最近のシリア情勢との関連で「シリア反体制派 クルド人と連携協議」(毎日、4月18日)といった、断片的な情報だけが流れてくるようになった。一見すると、シリアの反体制派はクルド人を受け入れているように思えるが、しかし実際にはそのような単純な話ではない。

最近、西クルディスタンの現状にかんするいくつかの記事を見つけたので、それらを翻訳・紹介したい。バース党政権のみならず現在の「反体制」勢力にたいしてもクルド人が周縁化されていることや、現在の情勢にたいしてクルド人がとっている立場を見ることは、シリアでいま起きていることや、帝国主義の一般的問題についても、多くのことを考えさせてくれると思う。

1. 西クルディスタン(シリア国内)小史

この節は以下記事のうち »Geschichte des Konflikts« の節の翻訳、ただし段落分けを細かくした。 Nikolaus Brauns, Kampf um Selbstbestimmung. Hintergrund: Syriens Kurden kommt eine Schlüsselrolle für die Zukunft des vom Bürgerkrieg zerrissenen Landes zu. Am 4 Mai 2012, in der Jungewelt. 関連記事として次も参照。「西クルディスタン(シリア)の歴史と現状」、『クルド人問題研究』より)

今日のシリアの状況は、第一次世界大戦期の帝国主義政策にその根をもっている。シリアとトルコの国境は、1916年のサイクス=ピコ協定にもとづく、フランスとアメリカによる中東の重要な諸地域の分割にさかのぼる。この国境は1920年代、当時のフランスの委任統治権力によって、クルド人の生活圏のただなかに引かれた。20年代にはじまった強制的なトルコ化のために、一連のクルド部族がトルコからフランスの委任統治領へと逃げ込む。軍政当局はかれらを、新たに建設された二つの都市ハサカ(Al-Hasaka)とカミシュリ(Al-Qamischli)に住まわせた。1930年代にはクルド民族統一運動ホイブン(Xoybûn=自治、自活)の影響で、アルジャジーラ地方〔シリア内〕で自治運動が起こった。1946年にはフランス軍の撤退をへてシリアが独立したが、自治権は確定されなかった。1957年にはクルド民族主義者とシリア共産党の初期メンバーとによってシリア・クルド民主党(KDPS)が設立される。同党は、当初は反帝国主義を明確にし、また統一クルディスタンに加入していた。

隣接するイラクでのムッラー・ムスタファ・バルザーニーに率いられたクルド人パルチザン闘争を目にして、シリアの政治家たちは「分離主義運動」の拡大を恐れていた。1962年10月の臨時人口調査のあと、隣国から移入してきたとされた約12万のクルド人が、大統領通達によって市民権を剥奪される。市民権を奪われた者とその子孫は最大22万5000人と見積もられているが、かれらは「無国籍者」として、公共の職業に就くことも、最低生活食料の給付を受けることも、不動産や生産手段を所有することも、国外に旅行することもできなくなった。1963年にはKDPSが、封建的な大土地所有者の政党であるという言いがかりで禁止される。バース党のハサカ市公安局長ムハンマド・タラブ・ヒラール将軍は、ある報告書において、反ユダヤ主義的な語調で「ユダヤ人とクルド人は同類だ」と警告している。将軍が要求したのは、クルド地域の意図的な経済的放置とそれに並行したアラブ人の入植によって、国内からクルド人を追放することであった。これに対応してシリア政府は、1973年より、トルコ国境沿いへのアラブ人2万5000家族の入植による「アラブ人地帯」の建設に着手。ハーフィズ・アル=アサド(1971年から2000年まで大統領)のもとで、アラブ・ナショナリズムは「シリア・アラブ共和国」の名のもとに憲法上の保護を受け、クルド語の公的使用は政府通達によって有罪化、さらに1998年には200以上の村が改名された。

だが〔ハーフィズ・〕アサドは同時に、対外政策の観点から、トルコやイラクのクルド人政党を支援した。トルコ国家とたたかうクルド労働党(PKK)を、バース党政権は1980年から支援を続けてきた。同党の党首アブドゥッラー・オジャランはダマスカスで生活し、その党はシリア軍駐留下のレバノン・ベッカー高原に教練キャンプをもっていた。トルコとシリアのあいだでは、地中海地方のハタイをめぐる領土紛争や、トルコのダムによってチグリス河・ユーフラテス河における水路が脅かされるといった問題が起きていたので、PKKはトルコにたいするシリアの切り札として役立った。

トルコにたいするシリア内クルド人の民族的奮闘を誘導するために、バース党政権はシリア内クルド人がPKKに加わるよう本格的に推進した。トルコの諜報部の分析によれば、1990年代にはかれらは〔PKKの〕ゲリラ闘士の4分の1を占めていたという。しかしながら、アンカラ政府が1998年10月に公然と戦争の脅しをかけ、国境の戦車と地中海のNATO戦艦に臨戦態勢をとらせてからは、ダマスカスは圧力に耐えることができなくなった。オジャランは長く暮らした受入国を後にしなければならなかった。1999年2月、トルコの諜報部員によって、ケニアからマルマラ海のイムラリ監獄島に連行され、かれの逃亡は終わる。アダナ合意において、いまやシリアはPKKをテロ組織として認め、シリア領土内でのその活動を阻止する義務を負った。結果として、PKKのメンバーたちはトルコに引き渡された。

2003年のはじめに創設された、シリア内クルド人によるPKKの姉妹組織「民主統一党」(PYD)は、この上なくきびしい迫害を受けた。社会民主主義的傾向をもつクルド統一党 Yekiti のような他の党は、そこにできた空白を埋め、しだいに大きな民族的権利を訴えるようになる。サダム・フセイン政権の倒壊後にアメリカの支援で北イラクに作られたクルド人自治区の存在に、シリアのクルド人は勇気づけられた。サッカーの Fatwa チームのアラブ・ナショナリスト的なファンがジャジーラのファンのクルド人に暴行をしたことをきっかけに、2004年3月に〔シリアの〕カーミシュリーで蜂起が引き起こされた。そのさいに治安当局によって30人以上のクルド人が殺されたが、これは「クルド人の覚醒」として歴史に記憶されている。つづく数年間にクルド人の抗議がいくつも起こったが、治安当局の攻撃を受け、活動家たちは連行され、拷問を受け、死に至っている。

中編へ

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社会帝国主義者オランド(フランス)

近年のヨーロッパ左翼政党の傾向からすればじゅうぶん予測可能なことだが、社会党から選ばれたフランス新大統領のフランソワ・オランドが、シリアへの軍事介入を強く呼びかけ、さっそく社会帝国主義者としての馬脚を露わにしている。『ハンブルガー・アーベントブラット』紙が報じたところによれば、「フランス大統領オランドは中国とロシアに、シリアへの介入を説得する意向」、「火曜の晩〔5月29日〕にテレビチャンネル「フランス2」で発表」(Militärintervention in Syrien: Frankreich bereit, USA nicht, in Hamburger Abendblatt, 30.05.2012)。日本語でも関連記事が読める(たとえばロイター5月30日「仏大統領「対シリア軍事介入排除せず」、欧米は大使らを追放」)。

一方、アメリカでさえ今回はまだ軍事介入には慎重だ。米オバマ大統領のスポークスマンがあらかじめ述べていたところによれば「米は現時点でさらに軍事介入へと進むことを拒否」、それは「より大きな混沌と殺戮につながりかねない」からであるとのこと(『ハンブルガー・アーベントブラット』同上)。もちろん、米政府に純粋な平和主義を期待できるわけではない。低コストで早期に目標を達成して早期に撤退するといったリビア式の介入が、シリアでは難しくなりつつあるなかで、アメリカとってシリア介入へのイニシアティヴは(いまのところ)さほど強くないのだろう。ともあれ、シリア介入の現時点での急先鋒はオランドだ。「社会帝国主義」という用語は、まさにこのような人物にうってつけである。

それにしても、一般的により「左翼的」「進歩的」「人道的」などと見られる人士・勢力のほうが、紛争への軍事介入により積極的だというのは、いまにはじまったことではないにせよ、皮肉である。この恒常化したアイロニーにいちいち驚いていられないことに、あらためて驚きを喚起したい。

25日にはシリアの首都ホムスの近く、フーラ(al-Houla)で砲撃が起こり、多数の市民が死傷した。国連人権高等弁務官の報道官は、これを政府側勢力のしわざと見なし、国連安保理は「虐殺」と認定して非難している。また、フランス、オーストラリアを皮切りに、欧米諸国は国内シリア大使の追放を続々と決定している。

今回の攻撃がどちらの勢力によるものか、市民の死について誰にどのような責任が帰されるべきなのか。また今回の件にかかわらずシリアの情勢について、どのメディア報道に、どの側から、どの程度のバイアスがかかっているのか。それを判断することはきわめて難しい。だが前提として確認しておかねばならないのは、シリア「反体制派」はどう見ても、チュニジアやエジプトのような民衆蜂起ではなく、リビアと同様に、さいしょから武装した好戦的勢力だということだ。しかもそれはNATOやイスラエル、湾岸の君主制産油諸国による軍事的あるいは財政的なバックアップを(陰で、ではなく)公然と受けている(たとえばM.チョスドフスキー 速報およびOnline Interactive Bookを参照)。今年2月から進められていた国連の和平プラン(いわゆるアナン・プラン)も、反体制側の戦闘行為もふくめたすべての責任をシリア政府側に課すもので、反体制側に肩入れしている当のNATOの責任はさいしょから問題にされていない

要するに、シリアの情勢は、一方的な弾圧や虐殺などではなく、当初から、公然たる「軍事介入」のあるなしにかかわらず、すでに戦争なのである。しかもこの戦争に手を汚しているのは、シリア政府や反政府勢力だけでなく、後者をバックアップしているNATO諸国、トルコ、湾岸君主諸国やも含まれる。だとすれば、当然ながらシリアへの現在見られるすべての介入が批判されねばならない。もちろん軍事介入などもってのほかだ。

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