抑圧に抗議する難民たち 日本で、そしてヨーロッパで

※ ウェブ媒体のミニコミ「Piscator ピスカートル 魚を採るひと」第19号に寄稿した読みものです。

抑圧に抗議する難民たち 日本で、そしてヨーロッパで

 21世紀に入ってからも、毎年、世界中で約100万人が故郷を追われ、新たに難民となっています。戦争や紛争が絶えないためです。ところで、世界で最大の難民受入国はどこでしょうか。実はパキスタンです(約170万人、2011年現在)。イラン、シリアと続いて、EU圏ではようやく四番目にドイツが来ます(約57万人)。しかもパキスタンとシリアは、国連の難民条約に加入しているわけではありません。

▽故郷の迫害を逃れても

 難民政策の実態は、建前とは大きく違います。難民は故郷で迫害されるだけではなく、逃げた先でも抑圧されています。私は難民支援者として、日本でそんな実態を見てきました。現在はドイツ留学を機に、EUでの政策や状況も調べています。
 数年前からEU諸国は、外部との境界を厳重に管理し、非正規な方法でしか国境をこえられない難民を締め出しています(ビザを取れる状況にないから難民なのに)。毎年、何百もの避難者が、地中海で、トルコ・ギリシャ間の地雷地帯で、忍び込んだトラックの密閉されたコンテナの中で、命を落としています。

 たとえ越境できても、EUでは全ての「違法」な越境者を、指紋をとって強力に監視します。難民申請者は、専用の施設に滞在し手続きを受けますが、どの国でも、施設内の環境や食事の質は低いです。手続き期間も、一年や二年と、不必要に引き伸ばされる傾向にあります。EUの難民申請者は基本的には外出できますが、ドイツのみ指定範囲外への無許可の移動を禁じています。ドイツでは、毎年4万人以上の申請者のうち、約85%は却下されており、2011年には8000人弱が強制送還されています。
 こうした実態に対して、EUの難民や支援者たちの抗議が高まってきています。ドイツでは、2012年3月から、難民たちが施設ではなく路上にテントをはって泊まり込み、申請手続きや施設環境の改善、難民の人権の保障を訴えています。10月にベルリンで行われた数千人のデモには、私も参加しましたが、すごい熱気でした。

 日本でも、難民からの抗議はすでに起こっています。特に2010年以降、入管収容所でのハンガー・ストライキや路上でのデモが、何度も行われています。そもそも収容所とは、日本の場合、退去命令を下された外国人のための施設として設置されています(日本に難民専用の施設はない)。したがって一歩も外に出られないし、中の環境もほとんど刑務所と変わりません。収容を解かれたとしても、難民手続き中に就労は許可されず、申請者への生活保障もわずかな人数にしか回ってきません。手続きは一年も二年もかかります。再収容されることもあります。日本での難民申請者は通算でも1万2000人足らずですが、それでも約20%しか受け入れられていません。それ以外の人は、故郷に帰ることもできないのに、収容所の中か外かに留め置かれるのです。どうやって生きていけと言うのでしょうか。

▽戦争と難民抑圧は1つのシステム

 難民が生じる背景も考えてみましょう。アフガンやイラク、リビアやシリア、パレスチナで、戦争を行い、あるいは後援しているのは、米国やEU諸国です。アフリカの国々を荒廃させているのは、「先進国」の資本です。かつて西欧の植民地であったこれらの地域は、第二次大戦後に国家として独立していきました。しかし特に1980年代以降、IMFなどの経済機関をつうじて、独立した国々の多くが莫大な債務を負わされ、世界における「南北」の貧富格差はむしろ拡大しました。荒廃した国で紛争が起こると、欧米は自国の利益に結びついた勢力を軍事的に援助します。「平和国家」日本も、欧米の世界戦略に追従してうまい汁を吸い、軍事的にも欧米との協力を強めています。遠くの国で起こる戦争と、日本やドイツのような「先進国」での難民抑圧とは、世界的な不均衡を作り出している、一つのシステムなのです。

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ヴュルツブルク~ベルリン難民抗議デモの紹介(2)

前回の記事に引き続いて、今回は、ヴュルツブルク~ベルリンのデモに先駆けてエアフルトで8月におこなわれたキャンプ “BREAK ISOLATION – Refugee Summer Camp 2012 in Erfurt” の報告記事を翻訳する。

【以下翻訳】

(原文 ”Meine persönliche Reflexion über das BREAK ISOLATION – Refugee Summer Camp 2012 in Erfurt” in der Karawane Webseite, auf deutsch: http://thecaravan.org/node/3363; in English http://thecaravan.org/node/3384

「隔離をうち破れ」難民サマー・キャンプ2012(エアフルト)にかんする個人的省察

わたしはモエマ・ペトリ・ロマオ。ちょうど18歳になったところだが、今年は「隔離をうち破れ」キャンプにいた。8月23日から27日までの4日間、わたしはそこで、ワークショップや議論に参加した。そこでわたしは、植民地主義的な不正義や帝国主義的な抑圧について、多くを学んだ。だれかが抽象的な「~主義」の概念について講義をしていたのではなくて、帝国主義的システムにかんする経験を全聴衆に伝えてくれた、難民たちや難民活動家たちの声をつうじて、それを学んだのだった。

諸階級から構成される社会に、わたしたちは生きている。労働者、移民や難民、女性への抑圧の上に成立しているシステムを維持するために、特定の人間に特権と力を与えるような社会に、わたしたちは生きている。「第一世界」と「第三世界」に、富める国々と貧しい国々に分割されている世界に、ただし論理的にはこう言うしかないのだが、全地表および全人口のうち、最大でも四分の一しか占めていない「第一世界」と、少なくともその四分の三を占めている「第三世界」とに分割されている世界に、わたしたちは生きている。ヨーロッパやアメリカ合州国、または産業諸国が、自分たちを富ませるために、アフリカ大陸、ラテンアメリカやアジアを荒らし回り、得られるものはなんでも奪い取るような世界に、わたしたちは生きている。


(2015年における富の分布。アメリカ合州国、欧州、日本が実際よりも大きく膨張している一方で、アフリカ、中東、南米などが著しく縮んでいるのが分かる。 Wealth distribution in 2015, source http://www.worldmapper.org)

学校の世界史においてそれは、こう呼ばれ、教えられている。ヨーロッパ列強による、アフリカ、ラテンアメリカ、アラブ、アジア諸国の植民地化として。ヨーロッパ列強による、諸大陸の分割や、恣意的な国境の画定として。ヨーロッパ列強による、さまざまな民族の数世紀にわたって機能してきた体制や構造の「民主化」や「文明化」として。それは、諸民族の文化への抑圧と侮辱の歴史である。今日にまで残っている諸文化は、UNESCO世界遺産リストに登録されている。だが、ほんとうの遺産はあまり残っていない。というのも、何世紀も前から、文化遺産は強奪されてきたし、諸言語は帝国主義の諸世紀に圧殺されてきたからだ。

わたしはモエマ。わたしの父はブラジル人で、母はドイツ人だ。両親の世代よりもさらに深いところにある自分のルーツを、わたしは知っている。わたしには支配者と被支配者の血が流れている。それによれば、わたしは帝国主義の産物だ。というのも、わたしのルーツはマルティニク、フランス領ギアナ、フランス、ブラジル、ドイツ、そしてアフリカにあるからだ。

でも、アフリカのどこにわたしのルーツがあるのかは分からない。わたしの先祖たちは奴隷としてブラジルにたどり着き、故郷との連絡や自分たちの文化風習を禁じられたからだ。したがって、ポルトガル人の植民地領主は、わたしや先祖たちから過去を奪い取ったのである。

今日、アフリカからヨーロッパにやってくる人たちはどうだろうか。かつてヨーロッパ列強は、かれらの過去を奪い取った。それから、戦争や飢饉、環境破壊によって、かれらの現在を耐えがたいものに変えてしまった。そして、ここヨーロッパにおいて、かれらを〔国境管理の過程で〕海のもくずと消し去り、収容所に閉じ込めつづけ、自殺へと駆り立て、あるいは何年も難民認定を長引かせることによって、かれらの未来を奪っているのである。

それは、歴史上の抽象概念としての帝国主義が過去のものであると歴史の授業で教わったとしても、実際には帝国主義は決して終わっていないのだということを、意識化していく過程である。

この帝国主義的な構造が現存するものであり、われわれの先祖の、そしてわれわれ自身の思考様式を形成している長い歴史にさかのぼるものであることを、意識化していく過程である。

「上」から約束されたものとしての人権を待ち望む必要などなく、それは本来あらゆる人間に与えられているものなのだから、自然権と呼ばれて当然なのだということを、意識化していく過程である。

他の「国民」とのあいだの戦争、憎悪や境界線は、大部分が帝国主義の結果であるということを、意識化していく過程である。

帝国主義、植民地主義、そして資本主義は、少数による多数への抑圧および搾取のシステムである。したがって、この構造とたたかうためには、連帯しなければならないし、自分の経験を他者の経験と深く連結させていくことが必要である。

まだ地表を引っ掻いているに過ぎないことは分かっている。だがそれでも、その下にどれだけのものが潜んでいるかは理解している。それは強靭な岩塊であり、掘りぬくには力がいる。だがわたしはのどが渇いており、渇きが目に見えるほどだ。運動を起こそう。変化をもたらそう。未来へと向かおう。岩塊がどれほど強固であっても、「キャラヴァン」と「ヴォイス」は、すでに長いたたかいを通過してきた。最後には、仲間たちの多くの手が力をもち、隔離の壁をうち破るだろう。

連帯せよ! キャラヴァンよ!

ここに載せるわたしの詩は、ヨーロッパの国境や難民法、われわれのたたかいにかんする、わたしの印象を表現している。

なぜなら

海の上で
もくずと消える
法のなかに
人間はいない
水よ 流れよ
鎮めるべき
渇き
つかむべき炎
自分を讃えよ
疲れは人間的
労働は過酷
海へと沈め
廃墟の上に
水が流れる
人は飲む
癒されない渇き
なぜなら 法のなかに
人間はいないから

29.08.2012, Moema Petri Romão

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ヴュルツブルク~ベルリン難民抗議デモの紹介(1)

ドイツで難民の抗議運動が活発化している。もとより1990年代から、「ボイス」(The VOICE Refugee Forum)や「キャラバン・ネットワーク」(Netzwerk der KARAWANE für die Rechte der Flüchtlinge und MigrantInnen)といった団体が、活動を続けていた(「ボイス」は1994年にテューリンゲンの収容所で創設)。ところが2012年3月からは、収容所に隔離されている難民たちが、路上でのキャンプによる抗議をはじめている(Über uns – Refugee Tent Action)。

その背景として、とくに恐慌がはじまってから、EU加盟国と第三国との境界に位置するイタリアやギリシャのような国々では、「国境管理」すなわち移民の排除がますます強化されている(過去記事「シェンゲン再編」も参照)。それ以外のEU諸国でも、たえず難民の強制送還がおこなわれている。こうした事態への抗議がひとつ。それにくわえて、ヨーロッパではドイツだけが導入している「在留義務」(Residenzpflicht)への反発も高まっている。ヨーロッパの難民収容は、(もちろん国ごとに異なるものの)基本的には、日本でやるような完全な監禁ではない。日本の収容施設やその運営は刑務所同然であり、そもそも難民受け入れ用の収容施設などは用意されていない(民間にわずかなシェルターがあるのみ)。他方でヨーロッパでは、受け入れ手続きを待つ難民用の収容施設があり、基本的には外出自由で、料理や選択などの日常生活も各人が自由におこなえるようになっている(とはいえヨーロッパでも、収容施設の環境の低劣さへの批判はあるのだが)。しかしドイツでは、そのような収容施設にいる難民への、移動制限を含めた「在留義務」が課されているというわけだ。路上で抗議する受け入れ手続き中の難民たちは、この在留義務への違反のかどで処罰を受ける恐れがある(以下の翻訳で言及されているとおり、実際にあった)。それでも難民たちは抗議を続けている。

難民たちの抗議は、ヨーロッパでの難民受け入れにおける人権侵害やもろもろの劣悪な実情だけに向けられているのではない。生まれ故郷から避難することをかれらに強いた構造をも、すなわち、国際規模における不平等と搾取、非対称な力関係、戦争といった現実をも、ひとことで言えば、現在も進行中の帝国主義をも、かれらは同時に告発している。

9月から10月にかけて、ヴュルツブルクからベルリンまで、約450kmにわたる抗議行進が挙行された。道中の各都市でテントが貼られ、デモがおこなわれた。そのなかで配布された、「キャラバン・ネットワーク」の記事を翻訳することによって、この抗議行進を紹介したい。

【以下翻訳】

(原文 The Voice of Refugees and Migrants: Zeitung der KARAWANE für die Rechte der Flüchtlinge und MigrantInnen, Ausgabe 4, Okt. 2012, S.1. PDF

なぜベルリンまで歩くのか

2012年9月8日、われわれはヴュルツブルクからベルリンへの抗議行進を始める。なぜか。自由と尊厳を望むからだ。われわれは数ヶ月前から活動し、ボイコットやハンガーストライキを決行してきた。これから始めるのは、約一ヶ月かかるであろう、長い行進である。革命的な難民として、以前には、閉じ込められていた収容所のなかで、われわれに注目を集めようと、さまざまな行動を試みてきた。

いまわれわれはベルリンに向かって歩き出す。そこに政権があるからだ。歴史上、あらゆる自由行進は、権力を代表し自由を制限する拠点を目的地としてきた。それと同じことをするのだ。われわれの具体的要求は周知のとおり。隔離の廃止。収容所の閉鎖。ドイツでのみ適用されている在留義務の廃止。われわれを最下層に分類する〔ことを意味する〕配給券(Gutscheine)の撤廃。数年にわたる難民手続によりわれわれを疲弊させる努力をやめること。その活動をつうじて多くの難民を死に至らしめている、フロンテクスの撤廃〔註・FrontexはEU加盟国と第三国との境界を管理するEUレベルの入管エージェント〕。そして、資本主義的・帝国主義的戦争や独裁のもとにある地域への強制送還をやめることだ。

われわれは、自分たちが始めた戦争から避難してきたのではない。人間や自然を破壊する兵器を作ったのも、われわれではない。われわれが逃げたのは、生まれた土地で生きる権利を得られなかったからだ。そして避難先であるヨーロッパの国々においても、自分たちの生きる権利を認めようとしない人々と、われわれは戦わねばならない。人間らしく生きるためには、それ以外には方法がないのだから。

つい昨日、わたしは管轄当局で、ベルリンへの移動許可を申請した。なぜわれわれには旅行の自由が保証されないのかと問いただしたので、当局はわたしを事務所から追い出した。そんな連中があらゆる場所を占めてきたのである。EUでは旅行の自由が存在しているという嘘を信じたい人は、ずっと信じつづけていればいい。しかしそれが嘘であること、われわれにはよく分かっている。そしてわれわれは誰にも止められない。国境が廃止されるまで、われわれは行動を続けていく。

強いられた隔離を打ち破るために、われわれは歩く。抑圧され、搾取され、差別されている兄弟姉妹たち、労働者たちに呼びかける。いつか資本主義は君たちをも監禁するだろうと。職業のない者は排除され、収容所に閉じ込められるだろうと。そのような企図をいまのうちに糾弾するために、われわれは歩くのだと。

この行進だけには留まらない。連帯を、そしてもうひとつの集団的な生活の基礎を、われらのもとに築き上げよう。隔離と孤立で抹殺されようとしている、われわれの人間的側面を、生かしつづけよう。集団的生活をもたらすキャンプをつうじて、われわれの能力を発展させ、別な生きかたを作り上げよう。このキャンプでは、われわれの自己発展のために、理論的にも実践的にも、たがいに助け合おう。一人ひとりが、たがいの弱い部分を支え合おう。

ちょうど昨日も、60人の難民がトルコに面する海に呑まれた。〔ギリシャとの〕国境沿いのメリッチの川が死体で埋まっているのを、われわれは見てきた。アテネの路上で物乞いをする人たちを、われわれは見てきた。避難のために身を売らねばならない若い女性たちを、われわれは見てしまった。妊婦が警官に殴られ、難民たちが侮辱を受けるのを、われわれは見なければならなかった。沈黙によって、そうした犯罪行為に加担したくはない。

収容や強制送還の脅しによって、われわれは沈黙を強いられる。昨日にも、われらが友人のひとりが、在留義務を違反したとの理由で拘留されたばかりだ。われわれがすし詰めの檻のなかで沈黙したまま朽ち果てることを、当局は望んでいる。

隔離されたままどこかで朽ち果てたくはない。われわれは歩き、みずからを解放することを選ぶ。ひとは歩くことで自由となる。ならば歩こう。それでどうなるのかを見てみよう。

トゥルガイ・ウル
2012年9月7日
行進開始の一日前に、ヴュルツブルクにて

何のために?

われわれ、「ボイス」(The VOICE Refugee Forum)と「キャラバン・ネットワーク」(Netzwerk der KARAWANE für die Rechte der Flüchtlinge und MigrantInnen)は、難民の自律的組織です。われわれは、いかなる国家的または準国家的な制度や組織にも支援されていません。

なによりまず、われわれは創立以来、われらが兄弟たち、姉妹たちの強制送還に反対してきました。というのも、さまざまなエスニック・グループ、宗教、皮膚の色、言語、ジェンダーに属する人々を引き裂くために、金持ちによる支配、搾取階級による支配を貫徹するために、強制送還はつねに手段として用いられてきたからです。

いまドイツでおこなわれている強制送還は、被支配的な国々、いわゆる「第三世界」から来た人たちをターゲットにしています。強制送還をつうじて、難民と移民の、また難民とドイツ人の連帯は掘り崩されています。ここドイツでのたたかいも、戦争と搾取にたいする世界的なたたかいも、強制送還によって弱められています。

連帯と団結は、国家や強制送還機構からの攻撃に抵抗するための、唯一の方法です。われわれ抑圧され搾取される者たちは、あらゆる支配の押しつけに抗してたたかうために、連帯し団結することを決意しました。

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要塞ヨーロッパからEU帝国へ(1) パリ条約とローマ条約

2007年の米国不動産バブルの崩壊に端を発する連鎖状の危機は、ヨーロッパでは政府債務危機にまで発展している。たしかに現在の危機は、グローバル資本主義や新自由主義にかかわる危機だと言えよう。だがそのような規定は、それがあまりに大雑把であるという点はおくとしても、とりわけヨーロッパの危機を説明するためには、不十分ではないか。現在の欧州危機が、たんなる米国発の世界金融危機のとばっちりや、いわゆるPIIGS諸国の「怠惰」の所産としてかたづけられるのなら、この危機はヨーロッパ統合過程の一時的な障害にすぎないということになろう。しかしながら、この危機の根が欧州統合過程そのものにあるとすれば、どうだろうか。

欧州統合は、国家間の利害対立や偏狭なナショナル・アイデンティティの克服としてポジティヴに参照されることが多い。ちょうどグローバル化をめぐる政治スペクトルがそうであるように、ネオリベ的な中道右派または左派が支配的な親ヨーロッパ主義を担い、その脇に別なヨーロッパ化(市民権の非ナショナルな拡張など)を追求する左翼リバタリアンが位置する一方で、EU離脱を主張するEU懐疑派は、どの国でも概して、より強硬な保守や極右から構成されている。しかしながら筆者は、こうしたスペクトルの内部からではなく外部から、より正確にはこのスペクトル自体を相対化しつつ、欧州統合過程を批判することが可能でも、また必要でもあると考える。「別のグローバル化」や「もうひとつの世界は可能だ」といったここ10年来の対抗的スローガンが、グローバル資本主義の危機の長期化にもかかわらず、より具体的な変革のプログラムへといまだ発展していない現状をかえりみよう。支配階級だけでなく抵抗勢力もまた、危機的状況にあるのだ。この危機を認識し、既存のスペクトルそのものを乗りこえ、より大胆な変革の(スローガンではなく)プログラムへと踏み出さないかぎり、状況は変わるまい。ECB(欧州中央銀行)の前でテントを張ったところで、当局はさほど気にかけてはいないのである。だが現状では、よりラディカルなプログラムを構想する前提となる議論にすら、踏み出せていないように見える。そういうわけで、こうした現状の土台となっている政治的スペクトルそのものの相対化の必要を、筆者は切実に感じるのである。

いまも昔も左派のもっとも深刻な落ち度は、帝国主義批判である。たとえその言葉そのものは使われていたとしても、それが適切な対象に適用されているとは限らない。今日において批判し対決しなければならないのは、「唯一の超大国」アメリカの帝国主義だけではないし、ましてや、とらえどころがなく「非領土的」でほとんど形而上学的な「帝国」または「ネットワーク主権」ではありえない。帝国主義は一握りの権力者の思想にではなく、国際秩序と市場経済の構造そのものに内在している。そしてヨーロッパはいまも、この帝国主義的構造の、それなしでは済まない確たる支柱なのである。「人道的介入」の美辞麗句で空爆されたリビアの民衆や、同様の運命に陥りかねないシリアの民衆を見よ。故郷の惨状にあえぎ、欧州への避難の試みはFRONTEX(欧州国境管理エージェント)に阻まれ、ときにはサハラ砂漠や地中海で命さえ落とす、中東・アフリカからの何千、何万の難民を見よ。欧州の支配階級は、連鎖する債務危機で右往左往している一方で、外部への構造的圧力をたゆむことなく強めつづけているのである。あるイタリアの難民問題活動家がそう呼んでいるように、(ナチス第三帝国支配下のヨーロッパよりむしろ)現在のヨーロッパこそが「要塞ヨーロッパ」(Fortress Europe, Festung Europa)である。

現在のEUがいかなる意味でひとつの帝国であるかを理解するには、なによりまずその成立過程を見るべきだろう。支配的な親ヨーロッパ派が「欧州統合の起源」と見なす二つの年号──1951年と1957年──は、西欧帝国主義の新たな戦略への転換を告げるものにほかならない。

(2013.4.8追記)以下に考察が続いていましたが、あるジャーナルできちんとした分析を書き直したので、このエントリの分析は削除します。リニューアルされた分析は、そのうちここにも載せるかもしれませんが、分かりません。

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