シリアの反政府武装勢力について少なくとも言えること

シリア情勢がますます深刻になり、それとともに諸外国──西欧、アメリカ、イスラエル、トルコ、GCC(湾岸協力会議)諸国──の干渉もますます強まっている。5月25日にはフーラ地区で、6月6日にはクベイル地区で、相次いで大規模な市民殺傷が起きた。いつものように責任の押しつけあいが続く。政府側は反乱勢力の仕業と、反政府側(のうちの武装勢力)および各国マスメディアは政府系民兵とされる「シャビハ」(Shabbiha)の仕業と見なしている。フーラの殺傷事件をめぐって、日本を含む西側諸国は足並みそろえてシリア大使追放を決定し、軍事介入の恐れが一段と高まっている。

内戦という状況のなかで、どの情報が真実に近いのか、また逆にどの情報にどんなバイアスがかかっているのかを、正確に把握するのは難しい。こうした激しい政治的対立をめぐっては、情報の取捨選択ひとつとっても、「どちらの肩をもつのか」という政治的な立場選択に否応なく結びつく、あるいは結びつけて捉えられがちだ。しかしながら、難しいとは言っても、事態の全体像を検証することは可能だし、また必要なことでもあろう。端的に言って、これは革命でも民衆蜂起でもなく、米欧イスラエルおよび中東の親米政権(トルコ・湾岸諸国)とアサド政権との非公式戦争である。

Voltaire Net(Réseau Voltaire)のティエリ・メイサンは、フーラでの市民殺傷を、反政府勢力であるシリア自由軍の仕業と認定している(Thierry Meyssan, L’Affaire de Houla illustre le retard du renseignement occidental en Syrie, 6月2日、また英訳もあり)。かれによれば、事態は次のとおりである。シリア政府は「数週間前からフーラ地区の統制を失って」おり、したがって「シリアの裁判官が現地に赴くことはできない」し、メディアもまた「シリア自由軍の許可と監視なしには取材できない」こと。シリア自由軍が事件の翌日には死体を埋めてしまったので、「国連の監視員は多くの死体の法医学的調査ができなかった」こと。虐殺の前日(24日)の夜に、シリア自由軍「同地域の統制を強化するための非常に広範囲な軍事作戦」を展開していたこと。自由軍はその地域のバース党議員やジャーナリストの関係者や縁者を殺したが、国軍の基地は一つしか陥落させられなかったので、作戦を変え、ワタニ(al-Watani)病院を攻撃し、そこや他の場所の死体をモスクに集めたこと。メイサンは、ワシントンがこれらの情報を調べもせずに、シリア大使追放の口実として用いたことを非難している。また、フーラの件が政府系民兵による仕業だと見なしうる証拠はなく、それどころか「シャビハ」なる民兵の存在は「神話」だと断言している。

もちろん、内戦の混乱の外部にある多くの者には、個々の報道がどの程度まで真実か、意図的な情報操作が含まれていないか、そうでなくともガセネタを掴まされてはいないかどうかを、詳細に判定することはできない。だが少なくとも、国軍と反乱軍とのどちらがどの地区を掌握しているかという程度のことに、白黒つかない検証不可能な風説が出回る余地はなかろう。ある軍が掌握している地域で、敵対する軍が市民だけを大量に殺傷するなどということが可能だとは信じがたい。

他方で、たとえばシャビハなる民兵がでっちあげだという断定については、報道者自身の情報収集および分析の能力を信用する以外にない。筆者は、この報道が総合的に見て誠実なものだと思うし、少なくとも政府側の軍または民兵がこの件に関与した証拠はないとしている点は正しいと判断するが。

とはいえ、シリア自由軍がどのような類の集団であるかについては、もっとはっきりした情報がいくつもある。今年になって、もともとシリアの影響が大きいレバノンにも紛争が飛び火しているが、レバノンのメディア Daily Star によれば、5月に「シリアの反体制メンバー」が、国境付近の街で、3人のレバノン人をアサド政権への協力者だとして、なんと誘拐している。レバノンの親アサド勢力もシリア人を誘拐し、最終的には仲裁者をへて双方の人質交換が成立したとのこと(5月16日記事)。その後もレバノン国境内での誘拐は何度か起きており、最近の一件では、シリア反体制派が「新たな「市民的国家」を樹立したあとで」人質を釈放すると、堂々と宣言している(ロイター6月6日)。

一方的な誘拐ではなく誘拐の応酬なので、もちろんレバノンの親アサド勢力も問題なのだが、それにしても驚くべきは、「革命」のために堂々と他国の市民を人質にとり、かつ「自分たちの政権ができるまで解放しない」と悪びれることもなく宣言するような輩が、シリアの反体制勢力を(少なくとも「シリア自由軍」を)構成しているということである

そもそも、最初からトルコやイスラエルによって武装された「シリア自由軍」が、シリアの民衆を代表しているなどと言えないことはあきらかだ。いまだにトルコ国内からシリアの情勢を動かそうとしている「シリア国民議会」(SNC)も、2011年以前からの国内反体制運動の流れをくむ国民調整委員会(NCC, ただし意図あってかマスメディアは National ではなく Local Coordination Committee と呼んでいるが)から、「手を引くぞ」と非難を受けている(Syria’s Local Coordination Committees Threatens To Withdraw From Syrian National Council, 5月17日)。今年2-3月に国連がアナンをつうじて提示した提示した和平プランはすでに破綻しているが、その原因は、アサド政権にたいする態度の甘さといったことにではなく、このような民衆的でもなんでもない武装勢力を、自由を求めるシリア市民の代表のように扱っていることに見出されるべきだろう。アサドがシリア国民の全体を代表するに値しないとしても、シリア自由軍やSNCがアサドほどにもシリア国民を代表しているとは見なしえないし、シリアの市民の血をこれ以上流させてはならないと望む者にとって、シリア自由軍は期待をかけうる勢力などではあるまい。

ところで、シリア国内のNCCがアンカラのSNCを非難している件には、クルド人のことも関わってくるのだが、それは「西クルディスタンはどうしているか」の続き(後編)で取り上げる。だがそのまえに、帝国主義諸国の介入についてのありうべき批判にかんしても、別記事で指摘することにしたい。

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西クルディスタンはどうしているか シリア「蜂起」の背後で(前)

クルディスタン(クルド人の土地)がおもにトルコ、イラク、イラン、シリアの各領土に分割されていることはよく知られているが、西クルディスタン=シリア内クルドについては、日本語で読める研究や報道がほとんどない。『クルド人とクルディスタン』(中川喜与志、南方新社)、『クルディスタン=多国間植民地』(イスマイル・ベシクチ、つげ書房)、『クルド人のまち イランに暮らす国なき民』(松浦範子、新泉社)などからは、クルド問題全体や、トルコ、イラン、イラクでのクルドの歴史を知ることはできるが、西クルディスタンだけが抜けている。(ウェブ上ではいくつか日本語のニュース記事紹介サイトがあるが、それは追って随所で紹介する。)

そんななか、最近のシリア情勢との関連で「シリア反体制派 クルド人と連携協議」(毎日、4月18日)といった、断片的な情報だけが流れてくるようになった。一見すると、シリアの反体制派はクルド人を受け入れているように思えるが、しかし実際にはそのような単純な話ではない。

最近、西クルディスタンの現状にかんするいくつかの記事を見つけたので、それらを翻訳・紹介したい。バース党政権のみならず現在の「反体制」勢力にたいしてもクルド人が周縁化されていることや、現在の情勢にたいしてクルド人がとっている立場を見ることは、シリアでいま起きていることや、帝国主義の一般的問題についても、多くのことを考えさせてくれると思う。

1. 西クルディスタン(シリア国内)小史

この節は以下記事のうち »Geschichte des Konflikts« の節の翻訳、ただし段落分けを細かくした。 Nikolaus Brauns, Kampf um Selbstbestimmung. Hintergrund: Syriens Kurden kommt eine Schlüsselrolle für die Zukunft des vom Bürgerkrieg zerrissenen Landes zu. Am 4 Mai 2012, in der Jungewelt. 関連記事として次も参照。「西クルディスタン(シリア)の歴史と現状」、『クルド人問題研究』より)

今日のシリアの状況は、第一次世界大戦期の帝国主義政策にその根をもっている。シリアとトルコの国境は、1916年のサイクス=ピコ協定にもとづく、フランスとアメリカによる中東の重要な諸地域の分割にさかのぼる。この国境は1920年代、当時のフランスの委任統治権力によって、クルド人の生活圏のただなかに引かれた。20年代にはじまった強制的なトルコ化のために、一連のクルド部族がトルコからフランスの委任統治領へと逃げ込む。軍政当局はかれらを、新たに建設された二つの都市ハサカ(Al-Hasaka)とカミシュリ(Al-Qamischli)に住まわせた。1930年代にはクルド民族統一運動ホイブン(Xoybûn=自治、自活)の影響で、アルジャジーラ地方〔シリア内〕で自治運動が起こった。1946年にはフランス軍の撤退をへてシリアが独立したが、自治権は確定されなかった。1957年にはクルド民族主義者とシリア共産党の初期メンバーとによってシリア・クルド民主党(KDPS)が設立される。同党は、当初は反帝国主義を明確にし、また統一クルディスタンに加入していた。

隣接するイラクでのムッラー・ムスタファ・バルザーニーに率いられたクルド人パルチザン闘争を目にして、シリアの政治家たちは「分離主義運動」の拡大を恐れていた。1962年10月の臨時人口調査のあと、隣国から移入してきたとされた約12万のクルド人が、大統領通達によって市民権を剥奪される。市民権を奪われた者とその子孫は最大22万5000人と見積もられているが、かれらは「無国籍者」として、公共の職業に就くことも、最低生活食料の給付を受けることも、不動産や生産手段を所有することも、国外に旅行することもできなくなった。1963年にはKDPSが、封建的な大土地所有者の政党であるという言いがかりで禁止される。バース党のハサカ市公安局長ムハンマド・タラブ・ヒラール将軍は、ある報告書において、反ユダヤ主義的な語調で「ユダヤ人とクルド人は同類だ」と警告している。将軍が要求したのは、クルド地域の意図的な経済的放置とそれに並行したアラブ人の入植によって、国内からクルド人を追放することであった。これに対応してシリア政府は、1973年より、トルコ国境沿いへのアラブ人2万5000家族の入植による「アラブ人地帯」の建設に着手。ハーフィズ・アル=アサド(1971年から2000年まで大統領)のもとで、アラブ・ナショナリズムは「シリア・アラブ共和国」の名のもとに憲法上の保護を受け、クルド語の公的使用は政府通達によって有罪化、さらに1998年には200以上の村が改名された。

だが〔ハーフィズ・〕アサドは同時に、対外政策の観点から、トルコやイラクのクルド人政党を支援した。トルコ国家とたたかうクルド労働党(PKK)を、バース党政権は1980年から支援を続けてきた。同党の党首アブドゥッラー・オジャランはダマスカスで生活し、その党はシリア軍駐留下のレバノン・ベッカー高原に教練キャンプをもっていた。トルコとシリアのあいだでは、地中海地方のハタイをめぐる領土紛争や、トルコのダムによってチグリス河・ユーフラテス河における水路が脅かされるといった問題が起きていたので、PKKはトルコにたいするシリアの切り札として役立った。

トルコにたいするシリア内クルド人の民族的奮闘を誘導するために、バース党政権はシリア内クルド人がPKKに加わるよう本格的に推進した。トルコの諜報部の分析によれば、1990年代にはかれらは〔PKKの〕ゲリラ闘士の4分の1を占めていたという。しかしながら、アンカラ政府が1998年10月に公然と戦争の脅しをかけ、国境の戦車と地中海のNATO戦艦に臨戦態勢をとらせてからは、ダマスカスは圧力に耐えることができなくなった。オジャランは長く暮らした受入国を後にしなければならなかった。1999年2月、トルコの諜報部員によって、ケニアからマルマラ海のイムラリ監獄島に連行され、かれの逃亡は終わる。アダナ合意において、いまやシリアはPKKをテロ組織として認め、シリア領土内でのその活動を阻止する義務を負った。結果として、PKKのメンバーたちはトルコに引き渡された。

2003年のはじめに創設された、シリア内クルド人によるPKKの姉妹組織「民主統一党」(PYD)は、この上なくきびしい迫害を受けた。社会民主主義的傾向をもつクルド統一党 Yekiti のような他の党は、そこにできた空白を埋め、しだいに大きな民族的権利を訴えるようになる。サダム・フセイン政権の倒壊後にアメリカの支援で北イラクに作られたクルド人自治区の存在に、シリアのクルド人は勇気づけられた。サッカーの Fatwa チームのアラブ・ナショナリスト的なファンがジャジーラのファンのクルド人に暴行をしたことをきっかけに、2004年3月に〔シリアの〕カーミシュリーで蜂起が引き起こされた。そのさいに治安当局によって30人以上のクルド人が殺されたが、これは「クルド人の覚醒」として歴史に記憶されている。つづく数年間にクルド人の抗議がいくつも起こったが、治安当局の攻撃を受け、活動家たちは連行され、拷問を受け、死に至っている。

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社会帝国主義者オランド(フランス)

近年のヨーロッパ左翼政党の傾向からすればじゅうぶん予測可能なことだが、社会党から選ばれたフランス新大統領のフランソワ・オランドが、シリアへの軍事介入を強く呼びかけ、さっそく社会帝国主義者としての馬脚を露わにしている。『ハンブルガー・アーベントブラット』紙が報じたところによれば、「フランス大統領オランドは中国とロシアに、シリアへの介入を説得する意向」、「火曜の晩〔5月29日〕にテレビチャンネル「フランス2」で発表」(Militärintervention in Syrien: Frankreich bereit, USA nicht, in Hamburger Abendblatt, 30.05.2012)。日本語でも関連記事が読める(たとえばロイター5月30日「仏大統領「対シリア軍事介入排除せず」、欧米は大使らを追放」)。

一方、アメリカでさえ今回はまだ軍事介入には慎重だ。米オバマ大統領のスポークスマンがあらかじめ述べていたところによれば「米は現時点でさらに軍事介入へと進むことを拒否」、それは「より大きな混沌と殺戮につながりかねない」からであるとのこと(『ハンブルガー・アーベントブラット』同上)。もちろん、米政府に純粋な平和主義を期待できるわけではない。低コストで早期に目標を達成して早期に撤退するといったリビア式の介入が、シリアでは難しくなりつつあるなかで、アメリカとってシリア介入へのイニシアティヴは(いまのところ)さほど強くないのだろう。ともあれ、シリア介入の現時点での急先鋒はオランドだ。「社会帝国主義」という用語は、まさにこのような人物にうってつけである。

それにしても、一般的により「左翼的」「進歩的」「人道的」などと見られる人士・勢力のほうが、紛争への軍事介入により積極的だというのは、いまにはじまったことではないにせよ、皮肉である。この恒常化したアイロニーにいちいち驚いていられないことに、あらためて驚きを喚起したい。

25日にはシリアの首都ホムスの近く、フーラ(al-Houla)で砲撃が起こり、多数の市民が死傷した。国連人権高等弁務官の報道官は、これを政府側勢力のしわざと見なし、国連安保理は「虐殺」と認定して非難している。また、フランス、オーストラリアを皮切りに、欧米諸国は国内シリア大使の追放を続々と決定している。

今回の攻撃がどちらの勢力によるものか、市民の死について誰にどのような責任が帰されるべきなのか。また今回の件にかかわらずシリアの情勢について、どのメディア報道に、どの側から、どの程度のバイアスがかかっているのか。それを判断することはきわめて難しい。だが前提として確認しておかねばならないのは、シリア「反体制派」はどう見ても、チュニジアやエジプトのような民衆蜂起ではなく、リビアと同様に、さいしょから武装した好戦的勢力だということだ。しかもそれはNATOやイスラエル、湾岸の君主制産油諸国による軍事的あるいは財政的なバックアップを(陰で、ではなく)公然と受けている(たとえばM.チョスドフスキー 速報およびOnline Interactive Bookを参照)。今年2月から進められていた国連の和平プラン(いわゆるアナン・プラン)も、反体制側の戦闘行為もふくめたすべての責任をシリア政府側に課すもので、反体制側に肩入れしている当のNATOの責任はさいしょから問題にされていない

要するに、シリアの情勢は、一方的な弾圧や虐殺などではなく、当初から、公然たる「軍事介入」のあるなしにかかわらず、すでに戦争なのである。しかもこの戦争に手を汚しているのは、シリア政府や反政府勢力だけでなく、後者をバックアップしているNATO諸国、トルコ、湾岸君主諸国やも含まれる。だとすれば、当然ながらシリアへの現在見られるすべての介入が批判されねばならない。もちろん軍事介入などもってのほかだ。

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