すでに行われてきた解釈改憲への反対は? 「日韓平和団体共同宣言」に寄せて

4月下旬のオバマ訪日・訪韓にあわせて、「日韓ネット」が「日韓平和団体共同宣言」への賛同を募っている(日韓ネットのブログにはまだアップされていないので、転載されているブログにリンクしておく)。

オバマ訪日・訪韓に対する日韓平和団体共同宣言への団体賛同を

いくつかの論点においては、筆者は宣言に賛同する。

今回のオバマ来訪が、「アジア地域への米国の介入と関与」、「米国中心の覇権的な軍事政策」および「中国や北朝鮮に対する締め付け」の強化を目的としているという指摘は、そのとおりであろう。
「北朝鮮の脅威」、「領土問題」、「中国の台頭に対する牽制」などを口実とした、「アジア駐留の米軍戦力の増強」および「日米韓ならびに日米豪の戦略的同盟強化」の推進、それにともなう、日本の集団的自衛権の行使容認、さらには日韓の「軍事情報に関する包括的保護協定」(GSOMIA)やMD協力の締結、などを後押しすることによって、米日韓が「事実上のアジア版NATO、軍事同盟システムの完成」に向けた協調を模索しているという見解は、筆者も共有するところだ。
そうした動きに積極的に呼応する日韓の政権にたいして、批判を強めねばならないと、筆者も強く感じる。

さて問題は、この「アジア版NATO」に反対する力を、どのように作っていくべきかということだ。

「日韓ネット」が代表するような、下からの日韓連帯の路線は、必要ではあるかもしれないが、十分条件ではまったくないというのが、筆者の考えである。
それぞれの国や地域の歴史的背景を踏まえない、または不十分にしか踏まえない、抽象的な国際主義では、かたちはあっても中身がなく、それゆえに反戦平和の実質的な力にはなりえないだろう。
そして、この「共同宣言」は(というより最近の日本における反解釈改憲の議論の大半は)、「アジア版NATO」に反対する日本人としての歴史的立場を、じゅうぶんに深めていないように感じる。

宣言では米日韓各政府への要求が掲げられているが、そのうち、日本政府への要求はひとつ。
「集団的自衛権行使容認と憲法改悪の立場を撤回すること」である。
だがこれは、「アジア版NATO」によって再確立されようとしている、米国およびその同盟国による覇権主義を批判する立場として、まったく十分ではない。

日本国内からの反対運動は、とりわけ日本政府の政策や姿勢を問題にしなければならないが、当の日本は、かたちの上での「平和憲法」にもかかわらず、自衛隊という名において、この「アジア版NATO」のなかでも有数の陸・海・空の軍事力をもっている。
戦争放棄・戦力不保持を掲げた憲法9条と矛盾する、強大な戦争遂行を保持さらには増強しているということ自体が、そもそも問題であり、ましてや「自衛隊」の国外展開などありえないというのが、この国における反戦運動のそもそもの構えであった(あるべきであった)はずだ。
この立場に、この国における集団的自衛権や「アジア版NATO」への反対運動を、しっかりと立脚させねばならないというのが、筆者の主張である。

つぎのように反論されるかもしれない。

「憲法解釈を変え、集団的自衛権を行使できる状態にしなければ、日本は「アジア版NATO」に参加できないのだから、解釈改憲反対を焦点とするのは正しい」
「憲法上の戦力不保持と自衛隊との関係に話を広げることは、論点を拡散させることになり、現状では逆効果だ」

あるいは、
「なしくずし解釈改憲を食い止めるためには、集団的自衛権への反対だけで結集点を作るしかない」
などと、「現実主義的」な観点から、主張する人もいるだろう。

しかしながら、そのような安易な大同団結路線こそが、むしろ、以下のような現実を取り違えてはいないだろうか。

たしかに現行の「自衛」解釈は、日本軍(自衛隊)の国外展開において、ある程度の足かせにはなっているだろう。
しかしながら、それはあくまで「ある程度」でしかない。
言うまでもなく、湾岸戦争以来、PKO、災害援助、さらには対テロ戦争の枠組で、自衛隊の海外派兵はつぎつぎに既成事実化され、またそれを可能とする法改定が進められている。
この動きにたいして、現行の「自衛」解釈はまったく制限とならなかった(あるいは少なくとも、運動をつうじて制限として機能させることができなかった)というのが、歴史的事実である。

だが「アジア版NATO」成立の危険性という文脈において、より注目すべきは、近年とくに活発化している、日本と他国との合同軍事演習ではないかと思われる。
合同演習というと、日米同盟を口実とした米国との合同訓練(1980年からの環太平洋合同演習への参加に始まる)がよく思い浮かべられるだろうが、しかし2010年ごろからは、インド、タイ、インドネシア、さらには韓国など、アジア諸国との合同演習が進められている。
とりわけ昨年10月8日からの3日間には、韓米日の海軍による合同軍事訓練が、朝鮮半島南方海域で実施されたが、これなど朝鮮民主主義人民共和国への露骨な威嚇だ。
さらには、例年3月から4月に行なわれている韓米の合同演習だが、今年のそれは「93年以降で最大規模」であったのみならず、沖縄の駐日米軍基地から多数のオスプレイがこの演習に参加する予定だ(現時点では「参加した」)と、韓国メディアで報じられた(しかも同メディアの日本語版には翻訳されなかった)。
※ このことは、近年の日韓情勢を批判的に分析している、以下のブログで取り上げられている。

Super Games Work Shop Entertainment 3月31日から4月7日まで行われる韓米合同軍事訓練について(2014.3.31)

こうした動きから言えるのは、上の宣言で仮にそう呼ばれている「アジア版NATO」が、すでに実質的には、かなりの程度整えられてしまっているということだ。

合同軍事訓練への日本参加の活発化が示しているように、韓国も含めたほとんどの近隣諸国の政権は、米国の覇権主義を補うかたちで日本軍(自衛隊)が活動することを、すでに許容してしまっている。
もちろん日本への警戒心がゼロになったわけではないだろうが、米国覇権下での協調への利害関心が、そのような警戒心より強くなっていることは、間違いない。

こうした現状を前に、「日本の軍国主義にたいする隣国の抵抗感は薄れているようだから、自衛隊の存在そのものは許容していいのではないか」と立場を後退させることもまた、ひとつの「現実主義」であるとは言えよう。
だがそういう姿勢では、日本が「アジア版NATO」に積極加担することを食い止めることなど、できるはずがない。
日本が「アジア版NATO」の主要な構成要素として受け入れられつつあるにもかかわらず、集団的自衛権に向けた解釈改憲には踏み切れないだろうという考えは、それこそ非現実的である。

自国の対アジア侵略と戦争とが誤りだったという見解に立つならば、侵略主義や覇権主義の道具であるところの軍事力を自国がもつことに、原則的に反対しなければならない。
過去の反省と自衛隊の保持とは両立しないという立場を、保持しなければならない。
そのような立場から日本の反戦運動や社会運動がどんどん遠ざかっていった結果として、現在がある。

だとすれば、とりあえず現状を食い止めるために人々を動員しやすい「低い敷居」を設定することではなくて、この国における反戦平和の原理を歴史的視点から作りなおし、これに運動を位置づけなおすことが、むしろ急務であるはずだ。
言い換えれば、自衛隊の存在こそが解釈改憲であるという事実認識に、この国の反戦運動の足場を置きなおすことである。

同じことは歴史認識問題についても言えるはずだ。
つまり、この問題をめぐる後退につぐ後退を断ち切るためには、「河野談話の継承」を掲げるのではなく、日本の戦時性奴隷制度や、植民地支配下での奴隷的労働、さまざまな戦時動員にかんする、徹底的な究明と個人補償を、諸外国の非難からではなく、清算されざる日本の侵略責任に主体的に向き合うという観点から、要求することである。

したがって、今回のオバマ訪日にかんして、日本の反戦運動が自国の政府にたいして掲げるべき要求は、以下である。

憲法9条が掲げている戦争放棄、戦力不保持と矛盾する、東アジア有数の軍事力としての自衛隊を解体すること。

そのような自衛隊の存在を許してきた、過去のすべての憲法解釈を、日本国家は撤回すること。

大日本帝国として行った一切の侵略行為の正当化を撤回し、戦時性奴隷制度(「慰安婦」動員)をはじめとする、植民地や占領地の出身者にたいする動員や強制労働の調査に取り組み、被害者への個人補償に応じること。

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クルド運動における二つの路線と中東介入

前記事では、米国のシリアへの攻撃計画がシリア内のクルド勢力をも標的にしているという報道を翻訳した。この点だけでも、軍事介入がシリアの「民主化」や多元的社会に寄与するのではなく、それに害をなすものでしかないことが分かる。端的に言えば、米日欧中心の帝国主義秩序にとって邪魔な存在は何であれ、米国は機会と適当な口実さえあれば殲滅しようとするということが、改めて確認されたわけだ。

この記事では、先の翻訳記事に補足を加えたうえで、クルド運動の二つの路線についてもコメントを加えようと思う。

1. 西クルディスタンの自治区について

西クルディスタン(シリア内クルド地域)での自治運動については、昨年に紹介した。

「西クルディスタンはどうしているか シリア「蜂起」の背後で」 (前) (中) (後)

「後編」で書いたように、2012年7月19日以降に、シリア政府軍がシリア北部のクルド地域から撤退し、コバネ、デレク、アムーデ、エフリン等がクルドの勢力下に置かれた。その後、8月2日にはNCC(クルド国民調整委員会)が、西クルディスタンの諸政党・諸団体からなる「民主的変革のための国民調整委員会」として再組織される(英語ウェブサイトウィキペディア英語記事を参照)。クルド民主統一党(PYD)は、自治区の包括的運動ネットワーク「民主的共同体運動」(Tev-Dem)の政治部門として位置づけられ、一部の政治活動家に留まらない、住民の文化的・社会的な動員が図られている(北沢洋子「シリアのクルド人」2013年1月31日、 Rozh Ahmad, The Kurdish Rebellion in Syria: Toward Irreversible Liberation, 23 Jan. 2013)。また選挙も行われ、「西クルディスタン人民会議」(WKPC)と名づけられた議会および対応する行政機能が形成されている。自由シリア軍(FSA)やヌスラ戦線からの攻撃を受けるも、クルドの「人民防衛部隊」(YPG)は今日まで自治区を守りつづけている。

FSAやジハード主義者、それに諸外国の「反体制派支持者」たち(とくに米国やトルコ)は、アサド政権を支援しているとか、アサド政権と密約したとか、そのような口実でクルド人を批判している。だが実際には、アサド政権にも、あるいはクルドの権利を認めようとしない反体制派にも、かれらはつかないという、ただそれだけのことである。

他方、自治区がどこまで「自治」を達成しているのかについては、先に挙げた北沢洋子の記事に読める(ただし北沢の記事は、やはり前掲のMonthly Reviewに載ったロジュ・アフマド(Ahmad)の記事に、大部分依拠しているようだ)。

クルドの自治区は完全に独立しているわけではない。現在なお、アサド政権から予算を受け取っているし、また公務員はダマスカスから給料を受け取っている。そのことが、「PYDとTev-Demはアサドの協力者」と非難される理由になっている。またPYDは、Derekのように政府軍と向き合っている地域でも、軍事攻撃を避けている。このことから、アサド政権とPYDの間に、密約があるのではないかと、推測がある。政府軍が、北のクルド人自治区に戦線を広げることを避けているのは、南に軍事勢力を集中出来るからだ、と推測されている。Derek市長のAlliasは「我々は、流血を避けたいと思っている。しかし、そのことが協力者だとは言えない。クルド人は政府軍に無慈悲に弾圧された過去を決して忘れない。多くのクルド人が、アサドの拘置所で拷問され、殺されたことを決して忘れない。また崩壊寸前の政権に協力するほど愚かではない」と述べた。

つまり、自治化した地区においても、地方行政の施設やスタッフが引き継がれているということだ。西クルディスタンの目標が分離独立ではなく自治である以上、これはなんら不思議なことではない。ところで前記事では、「ペンタゴン」が政府とクルド勢力に「共同で」打ち立てられた軍事施設を攻撃すると宣言しているくだりがあるが、これも「ペンタゴン」がそうみなすところの「共同」施設にすぎず、実際には、自治化した地域においてクルド勢力に引き継がれた施設のことを言っているのに過ぎないのではないかと推測される。管見のかぎり、政府とクルド勢力が軍事施設を「共同で打ち立てた」という情報は出所不明である。

昨年8月2日、PYDの外務局は、国際社会に西クルディスタンの自治への支援を求める声明を発している。この声明では、「自由で民主的な、多元的に統一されたシリア」(a free democratic and plural united Syria)の建設に貢献することを宣言し、「シリアのすべての革命家」への「安全な避難所」を提供しうると述べられていた。しかしながら、これは国際社会に無視され、とくに米国とトルコからは「分離主義」または「PKKのテロリスト」のたわごととして、敵意をもって迎えられている(アフマド記事)。この見解について指摘すべきことは三つある。第一に、西クルディスタンの運動とPKKとの協力には歴史的背景があること。第二に、西クルディスタンの運動は分離主義ではないこと。そして第三に、「自由で民主的な、多元的に統一された」社会を真に目指しているのは西クルディスタンであって、トルコや米国が支援している宗派主義的な武装勢力ではないということ。昨年8月3日にカミシュリでデモ主催者たちが訴えたのは、「シリアのクルド地域におけるクルド人、アラブ人、ムスリム、キリスト教徒、アルメニア人、アッシリア人の兄弟愛と同志意識」であり、かれらが「クルド民族」の名において非難したのは「宗派主義的な根拠にもとづく戦争」であった。そのように宣言して自治化した西クルディスタンが、なによりまずFSAから攻撃を受けたという事実は、シリアの「民主主義」に向けた蜂起という大義の空疎さを物語っている。

2. シリア反体制派について

ところで、ヌスラ戦線のテロ活動が突出するようになってから、シリアの反体制運動がテロ集団にジャックされてしまったと、最近はよく言われているらしい。しかしながらFSAが、少なくともその一部が、最初から市民へのテロ行為に訴えていたことは、筆者もすでに指摘したとおりである。FSAが欧米やトルコ、イスラエル、湾岸諸国から援助を受けていることも公然たる事実だ。

アサド政権側の攻撃だけをあげつらい、最近の化学兵器の件のように、誰の仕業かも判明していないことまで全面的に政権側のせいにする、諸国政府やマスメディア。これがシリア政権転覆という目的先にありきのキャンペーンでなくて、一体何なのか。米国の爆撃と過激主義者のテロ攻撃で政権が崩れたあかつきには、イラクやリビアと同様、シリアもまた宗派対立の舞台となり、形式的な代議民主制のもと、バアス党政権下で保証されていた各種の社会的権利も抹消され、シリア人民はむき出しの暴力により沈黙と困窮を(少なくとも現政権よりも悪い状態を)強いられることになるだろう。

シリアの土着的、民衆的な革新勢力と連帯したいと望む者は、西クルディスタンと反体制運動との関係をよく見るべきだ。すでに昨年に解説し、上でも指摘したことと重複するが、シリア国民会議(と言ってもイスタンブールに置かれた、国内に根をもたない亡命者の寄り合いだが)はクルドの自治権を否定している、それもあって、西クルディスタンは政権にも反体制にもつかない、独立した路線を選んでいる。そもそも、自治宣言した西クルディスタンを攻撃しているのは、政府軍よりも、(前述のとおり)反体制勢力である。いまだ自治化の準備段階であった昨年6月から、すでにFSAは西クルディスタンに攻撃をしかけてきており、10月にはシェイフ・マグスド(Sheikh Maqsood)地区など自治区の複数地域でFSAとの大きな衝突が起きているし、その後も自治区は、FSAやヌスラ戦線の攻撃にさらされている。

こうした問題を無視して、アサドだけを悪魔化するのは、民衆的な国際連帯を目指す者がすべきことではまったくない。

3. クルド民族運動の二つの路線

ところで、西クルディスタンの自治運動について気づくのは、南クルディスタン(イラク)の自治政府との違いである。自治化への経緯、自治運動としての目標、これらにおいて両者は対照的だ。昨年の記事で筆者は、南クルディスタンの路線を「現実主義的」と、西クルディスタンの路線を「民主的・社会的」と形容し、このように書いた。

南クルディスタン自治政府の、とりわけマスウド・バルザーニーのスタンスには、現実主義的あるいは機会便乗的な傾向があるように見える。そもそも自治区の獲得が、アメリカがイラクで行った帝国主義戦争の副産物でしかなかった以上、自治政府がアメリカをはじめとする帝国主義陣営から真に独立した戦略をとることは、ほとんど考えられない。現実主義の問題は、それが真に現実的かどうかというよりも、それがつまるところ政治主義的で、より根本的な変革や権利拡大をむしろ妨げうるという点にある。なるほどバルザーニーの諸政策が、クルド自治区の何らかの利益を代弁しようとしていることは間違いない。だがそれは、開発主義あるいは利益誘導(欧米資本の誘致)であり、しかもその専断的なやりかたにたいする批判が強まっている。南クルディスタンにおいて支配的な現実主義や便乗主義が、どの程度の影響を西クルディスタンに及ぼしてきたか、また及ぼしうるかについては定かではないが、いずれにせよPYDとKNC〔南クルディスタンに本部を置く西クルディスタン解放勢力のひとつ〕の統一ないし連合においては、安易な現実主義路線は避けられるべきだろう。

他方、PYDおよびPKKの基本アジェンダが自治および連邦制にあることは……見てきたとおりである。PKKが2000年代にこのような路線に転換したことには、国家独立そのものが難しいという現実主義的な理由も、もちろんあるだろう。だが連邦制の構想そのものは、機会主義的な戦略ではまったくない。獄中のPKK党首オジャランの獄中出版をはじめとして、北クルディスタンでは、クルディスタンの民主的・社会的な自治の条件や方途にかんする議論が積み重ねられており、その実現のための北クルディスタンの諸団体の包括組織である「民主的社会会議」(Democratic Society Congress)が、2011年に立ち上げられるところまで来ている。そしていま、南クルディスタンではなく西クルディスタンで、そうした自治構想を実現していく可能性が、不安定であれ生じつつある。この構想が実際にはどのように、またどこまで実現されうるのかは、安易に予想でることではない。だが少なくとも、欧米および(クルド以外の)中東諸国家の影響を排した自治化を実際に進めている点において、これまでのところPYDは一貫している。

その後においても、西クルディスタンにおける「民主的・社会的路線」の優位は維持されているようだ。北沢 (が参考にしているアフマド)もこのように報告している。

PYDは、これまでのクルド人政党のように、クルド人地域全体のすべての様相を直接コントロールすると言うのではなく、むしろ幅広いネットワークである「Tevgara Jivaka Democratic(民主的共同体運動Tev-Dem)」の政治部門に過ぎないと考えている。Tev-Demは「民主的社会運動」だと位置付けている。PYDは、人びとを政治的に組織するが、一方Tev-Demは、地域の青年、女性、労組、クルド語学校などのセンターに依拠して、人びとを文化的に動員している。……上記の2つの組織の関係について、PYDの共同代表であるAsia Abdullaは、「党がシリアのクルディスタン地域の民主革命を政治的にリードし、一方Tev-Demは社会運動を組織する。我々は民主的な社会を下から構築する」と解説している。

クルド人地帯には、Tev-Dem運動とPYD/WKPCの他に、いくらかの少数政党がある。15団体が集まって、「クルド国民評議会(KNC)」を名乗っている。しかし、KNCは現場との関係がない。にもかかわらず、KNCはTev-DemやPYD/WKPCに対抗する勢力だと自認している。なぜKNCが弱いかと言うと、参加している政党が分裂を繰り返していることにある。例えば、KNCの有力メンバーである「シリア・クルド民主党(al Party)」は、最も古いクルドの右翼政党だが、現在は、3つに分裂し、それぞれ同じ名前を名乗っている。……PYD/WKPCとKNCとの間には、大きな違いがある。KNCは、ネオ・リベラル路線をとっており、その代表は、国外で米政府の代表やトルコ当局と会合している。一方、PYD/ WKPCの政治哲学は、トルコのPKKの創設者Abdulla Ocalanのイデオロギーに依拠している。しかしPYDがPKKのシリア支部にすぎないという米・トルコ政府の中傷に反対している。

以上を踏まえて、より直截に、クルド自治運動内の右派路線と左派路線という表現を使ってしまってもいいように思える。PYDが主導する、近年のPKK型の路線においては、政治的な自治化と、クルド人民の下からの(政治的のみならず)社会的・文化的な組織化とが、平行して進められている。他方、南クルディスタン型の、KNC(クルド国民会議、南クルディスタンに本部を置く)が実践している路線においては、「米政府の代表やトルコ当局との会合」が、上からの政治と利益誘導が優先される。

すこし脇道にそれるが、先月21日に行われた南クルディスタンの議会選挙(1991年の蜂起のさいに行われた選挙以来、自治区で初のもの)では、2009年にクルディスタン愛国党(PUK)から分立したゴラン(Gorran、変革党)が、PUKを追い抜き、第二党へと浮上した(Kamal Chomani, Iraqi Kurdistan’s historic election, 29 Sep. 2013)。クルディスタン民主党(KDP)は第一党の地位を守ったが、KDPとPUKが自治区の中枢を分有する二頭体制への異論が、相当に高まってきたということだ。KDPおよびPUKは、1991年の蜂起以来、内紛状態にあったのを、1998年にワシントンで仲介してもらって以来、イラク戦争以降は米国のバックアップで実効的な自治区の設立にまでいたった。しかしながら、マスウド・バルザーニーのもとで進められている、外国資本の大々的な誘致による開発優先政策の結果、官職・要職についた両党人士の利権癒着、腐敗が進行している(もちろん先進諸国は自治区との投資・パートナーシップ作りに熱を上げており、たとえば日本では平沼赳夫を会長とする「日本クルド友好協会」がそうした動きの代表である)。この状況への下からの不満が高まっており、ゴランはこの不満を引き受けるかたちで勢力を伸ばしているのだ。今後、南クルディスタンの自治区は、さらなる民主的改革へと進んでいくかもしれないし、近い未来にはそうならないかもしれない。外国資本が大規模に投入されている以上、現在の体制は先進諸国からの大きなバックアップを受けられるだろうが、逆に腐敗が目にあまるようになれば、諸外国は体制ではなく変革勢力に支持を転じるかもしれない。いずれにせよ、米国を中心とした先進資本主義・帝国主義陣営の支えを頼みにした「自治」の限界が、南クルディスタンでは、じょじょにであれ露呈されつつあるように見える。

西クルディスタンの自治区では、下からの社会的・文化的な組織化を最重視するPYD-PKKの路線が、主導的でありつづけている。これにたいして、米国やトルコなど(要するに、NATO側で中東に利害を有する国)は、またそれに支援されたシリア「民主化」「反体制」勢力は、無視、悪宣伝、攻撃をもって応えてきた。帝国主義的な「民主主義」と、下からの民衆的、自律的な民主主義との対比が、これほど鮮明に現れている事例は、なかなかないように思える。これはシリア「反体制」勢力支持派にはとても都合の悪いことであるから、西クルディスタンがイスラム過激派に攻撃されている報道を見ても「アサドとの密約」の兆候としてしか読まない、ある薬莢の臭いの漂うジャーナリストのような反応もでてくるのだろう。他方、クルド人ジャーナリストの中でも、米国のシリア軍事介入が西クルディスタンの利益になる、またはなる可能性があると考える手合いはいる(たとえば Sabah Salih, How Could an American-Led Attack on Syria Benefit the Kurdish Cause? 30 Aug. 2013)。こうした声は、クルド運動の全体を代弁するものではなく、クルド運動にも左右の分岐があるということの例証として捉えるべきだろう。筆者は西クルディスタンの路線を支持する。

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【翻訳】 米国のシリア軍事介入にたいするクルド人の態度

シリアにたいする米国の軍事介入の切迫した危機は、ロシアが提案しシリアも同意した、国連の監督下におけるシリアの化学兵器廃棄に、米国が同意したことで、さしあたり回避された。とはいえ、今後また米国が何を口実にシリアへの軍事介入に踏み出そうとするか分からないので、ありうる米国の軍事行動の目的や展開に釘を指すためにも、先月の記事を翻訳することにも意味はあると思われる。筆者は西クルディスタン(シリア内クルド地域)との関連でシリア情勢を考察してきたので、今回もクルド民族運動からの報告を紹介する。

【以下翻訳記事】

米国のシリア攻撃にはクルドのPYD勢力およびジハード主義者も含まれている PKKより

By Hawar Abdul-Raza, on Sep. 5, 2013, in EKurd.net: http://www.ekurd.net/mismas/articles/misc2013/9/syriakurd898.htm

今後ありうる米国のシリアへの軍事攻撃では、シリア国内のクルド勢力や、アルカイダと結びついたヌスラ戦線のようなジハード主義者も標的にされているようだ。クルディスタン労働党(PKK)に近い情報筋より。

政治面でPKKの一翼を担うKCK(クルド共同体連合)のスポークスマン、ザグロス・ヒワ(Zagros Hiwa)は、この報告を受けて、ワシントンのシリア軍事介入を支持しないと述べた。
バーシュニュース(BasNews)が入手した情報によると、米国の標的は三つ。シリア政権軍。シリア・クルディスタンでのPKK の一翼と見なされている、クルド民主統一党(PYD)に属する軍事勢力。シリア国内でのテロ行為のかどで非難されており、またイスラム主義組織アルカイダと密接につながっている、ヌスラ戦線。

「外部からの介入は、シリア人民のためではなく、外国の政治課題のためにしかならない」と、PKK の拠点のあるガンディル山から、ヒワは語った。

〔8月30日〕金曜に米国のジョン・ケリー国務長官は、シリアでの化学兵器使用の証拠を公開し、米国の軍事介入の必要を強く主張した。

ケリーは声明において、シリア政権が化学兵器を使った証拠や事実とかれが呼んでいるものにたいして、米国の諜報部は「強い確信」をもっていると述べたうえで、「問題はそれに一体どう対処するかだ」とつけ加えた。

過激主義ヌスラ戦線は米国の軍事行動における第三の標的だと言われており、シリアのクルド人の報告によれば、「この攻撃は、2003年のイラク・クルディスタンにおける、アンサール・アル・イスラムへの米国の攻撃と似たものとなるだろう」。

ペンタゴンの攻撃はまた、アサド軍とPYD軍が共同で打ち立てた〔訳者: この点は別途解説〕軍事拠点・施設や訓練キャンプを、また西クルディスタン(シリアのクルド地域)で最大の街カミシュリにある空港を狙うだろう。

PKK に近い情報筋によれば、現在PKK軍は、米国の攻撃の可能性に備えて、自衛のために組織の態勢を固めなおそうとしているところだ。

アラブ世界および欧州における米国の同盟諸国は、国連の調査班がその発見を公表するまで、いかなる軍事攻撃も延期されることを望むとしている。国連のマンデートは、化学兵器が使われたかどうかの判定が目的であって、だれかに責任をなすりつけるためのものではない。国連高官は、調査班の仕事を促進する一方で、手続きの公正さを保護しようと努めてもいると語っている。

イラクのクルド人政治専門家ジュテヤル・アデル(Juteyar Adel)は、シリアのクルド地域にたいする米国の攻撃の狙いはPYDにあると、バーシュニュースに語った。

「もし同地域が米国に攻撃されれば、PKKはそこでの影響力を失うだろうし、トルコは喜ぶだろう」と、アデルは述べた。

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抑圧に抗議する難民たち 日本で、そしてヨーロッパで

※ ウェブ媒体のミニコミ「Piscator ピスカートル 魚を採るひと」第19号に寄稿した読みものです。

抑圧に抗議する難民たち 日本で、そしてヨーロッパで

 21世紀に入ってからも、毎年、世界中で約100万人が故郷を追われ、新たに難民となっています。戦争や紛争が絶えないためです。ところで、世界で最大の難民受入国はどこでしょうか。実はパキスタンです(約170万人、2011年現在)。イラン、シリアと続いて、EU圏ではようやく四番目にドイツが来ます(約57万人)。しかもパキスタンとシリアは、国連の難民条約に加入しているわけではありません。

▽故郷の迫害を逃れても

 難民政策の実態は、建前とは大きく違います。難民は故郷で迫害されるだけではなく、逃げた先でも抑圧されています。私は難民支援者として、日本でそんな実態を見てきました。現在はドイツ留学を機に、EUでの政策や状況も調べています。
 数年前からEU諸国は、外部との境界を厳重に管理し、非正規な方法でしか国境をこえられない難民を締め出しています(ビザを取れる状況にないから難民なのに)。毎年、何百もの避難者が、地中海で、トルコ・ギリシャ間の地雷地帯で、忍び込んだトラックの密閉されたコンテナの中で、命を落としています。

 たとえ越境できても、EUでは全ての「違法」な越境者を、指紋をとって強力に監視します。難民申請者は、専用の施設に滞在し手続きを受けますが、どの国でも、施設内の環境や食事の質は低いです。手続き期間も、一年や二年と、不必要に引き伸ばされる傾向にあります。EUの難民申請者は基本的には外出できますが、ドイツのみ指定範囲外への無許可の移動を禁じています。ドイツでは、毎年4万人以上の申請者のうち、約85%は却下されており、2011年には8000人弱が強制送還されています。
 こうした実態に対して、EUの難民や支援者たちの抗議が高まってきています。ドイツでは、2012年3月から、難民たちが施設ではなく路上にテントをはって泊まり込み、申請手続きや施設環境の改善、難民の人権の保障を訴えています。10月にベルリンで行われた数千人のデモには、私も参加しましたが、すごい熱気でした。

 日本でも、難民からの抗議はすでに起こっています。特に2010年以降、入管収容所でのハンガー・ストライキや路上でのデモが、何度も行われています。そもそも収容所とは、日本の場合、退去命令を下された外国人のための施設として設置されています(日本に難民専用の施設はない)。したがって一歩も外に出られないし、中の環境もほとんど刑務所と変わりません。収容を解かれたとしても、難民手続き中に就労は許可されず、申請者への生活保障もわずかな人数にしか回ってきません。手続きは一年も二年もかかります。再収容されることもあります。日本での難民申請者は通算でも1万2000人足らずですが、それでも約20%しか受け入れられていません。それ以外の人は、故郷に帰ることもできないのに、収容所の中か外かに留め置かれるのです。どうやって生きていけと言うのでしょうか。

▽戦争と難民抑圧は1つのシステム

 難民が生じる背景も考えてみましょう。アフガンやイラク、リビアやシリア、パレスチナで、戦争を行い、あるいは後援しているのは、米国やEU諸国です。アフリカの国々を荒廃させているのは、「先進国」の資本です。かつて西欧の植民地であったこれらの地域は、第二次大戦後に国家として独立していきました。しかし特に1980年代以降、IMFなどの経済機関をつうじて、独立した国々の多くが莫大な債務を負わされ、世界における「南北」の貧富格差はむしろ拡大しました。荒廃した国で紛争が起こると、欧米は自国の利益に結びついた勢力を軍事的に援助します。「平和国家」日本も、欧米の世界戦略に追従してうまい汁を吸い、軍事的にも欧米との協力を強めています。遠くの国で起こる戦争と、日本やドイツのような「先進国」での難民抑圧とは、世界的な不均衡を作り出している、一つのシステムなのです。

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朝鮮が核武装および臨戦態勢を強化するのは当然である

筆者は、いかなる核開発(原発含む)にも反対である。だがそれにもかかわらず、現状況において朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮)が核武装を強化することを、筆者は擁護する。

戦火に包まれる危険から朝鮮を守っているものは、残念ながら現況では、朝鮮の核開発能力をおいて他にない。もちろん、ここで言う戦火とは、米韓の砲弾による戦火であり、米国の戦闘を全面的に支援するであろう日本によってももたらされる戦火である──明文改憲なり解釈改憲なりして、日本も公然と攻撃に加わることもありうるが。

先進資本主義国にたいして(一定程度)敵対的であり、のちに核や大量破壊兵器を放棄した国々が、過去10年ほどのあいだにどうなったのかを、思い出して見ればいい。実際にはすでに1990年代に大量破壊兵器を放棄していたイラクでは、米国の爆撃によって、数十万の民衆の命とともにバアス党体制が吹き飛ばされた。2003年に核開発を放棄したリビアは、国外で訓練された「反体制派」の蜂起を口実としたNATOの空爆による体制転覆をもって、混乱の渦に叩き込まれた。

そのようなさまを見たあとで、「核を放棄したら対話を再開してやる」というオバマの言葉を、誰が信用できるというのか。朝鮮が核を放棄したとしても、米国をはじめとする帝国主義陣営が同様の軍事攻撃をおこなわないと、誰が保証できるだろうか。米国の実質的な核放棄への道を開く力となりえないかぎり、日本や他の「西側」諸国の平和主義勢力には、朝鮮の核開発を批判する資格などない。現状では(筆者自身も含めた)西側の反戦主義者よりも、朝鮮の核のほうが、よほど平和の役に立っているのだ。(オバマの核軍縮政策が内実をともなっていない点については前記事を参照。)

朝鮮が平和勢力であるなどとはもってのほかだ、という反論が、すぐに返ってきそうである。たしかに3月11日の休戦協定破棄宣言以来、朝鮮はこれまでにないほど対決姿勢を強め、実際に臨戦態勢を強化している。それでは、これほどに強烈な対決姿勢を、朝鮮が今日になって打ち出しているのは、なぜか?

朝鮮の拉致問題公式認定にもかかわらず、日本は朝鮮との国交正常化交渉を一方的に覆し、「経済制裁」を強化させてきた──それ以前に、朝鮮半島の植民地支配にかかわる日本の責任問題を、日本は国交正常化交渉から系統的に排除しているという問題もある。韓国は李明博政権期から、金正恩体制がすぐに崩壊するだろうとタカをくくり、吸収統合の姿勢を表に出していた。最近では毎年2-3月に、米韓は対朝鮮の戦闘を想定した共同軍事演習(キー・リゾルブおよびフォール・イーグルと命名された)をおこなっている。しかも今年の演習は、イギリス軍、オーストラリア軍、フィリピン軍なども参加しており、「米国が「かつての「国連軍」を目論み、第2次朝鮮戦争を準備していること」を伺わせるものになっているという(愛媛現代朝鮮問題研究所代表 名田隆司の記事より)。

朝鮮が挑発者で、米国や日本は冷静な対応者であるかのように、ほとんどの人間(マスメディアに限らず)が決めつけているが、実際にはむしろ朝鮮こそが、米国を中心とする西側諸国からの圧力と挑発への対応に迫られてきたわけである。そのような脅迫には屈しないという強い意志を、朝鮮は鮮明に出しているのだろう。少なくとも、国際関係上の緊張を高めて、韓国や日本の信用を下げて困らせ、譲歩を引き出そうとしているのだという見解は、あまりにも浅薄だ。

現状において想定しなければならない可能性は、朝鮮に攻撃されることではなく、朝鮮を攻撃することである。また、そのような可能性が実現することを避けるために、反戦主義者がしなければならないのは、朝鮮バッシングに加担したり、それに我関せずを決め込むことではなく、そのような風潮に公然と反対することである。

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【転載】世界最大の核武装ならずもの国家と、その同盟国の姿勢にかんする中国新聞社説

最近ものを書く力を別のことに集中していて、独自の文章ではないのですが、社説の転載です。
米国の定期的な核実験についても、「包括的核実験禁止条約」(CTBT)にかんしても、ごく当然の指摘なのですが、日本においては、および帝国主義陣営の見方が支配的である「国際社会」においては、このていどの事実認識すら系統的に避けられている(「隠されている」のではなく)と感じます。

【以下転載】

中国新聞 2013年3月13日 http://www.chugoku-np.co.jp/Syasetu/Sh201303130083.html

米の核性能実験 「核なき世界」はどこへ

北朝鮮の地下核実験は許せないのに、自国の核を温存する実験は当然だというのだろうか。

米国が核兵器の性能を調べるための実験を昨年に2回行っていたと発表した。2010年から通算8回に上る。

北朝鮮の核開発を断念させようと、国際社会は足並みをそろえている。米国の二重基準は、北朝鮮に正当化の言い訳を与えるようなものだ。国を問わず核実験は、核兵器の開発や維持が目的である。

昨年末には臨界前核実験も実施している。オバマ大統領が掲げた「核兵器なき世界」からますます遠ざかっていると言わざるを得ない。被爆地からも抗議が相次いだ。当然であろう。

今回の実験はニューメキシコ州の研究所にある「Zマシン」という装置で行われた。少量のプルトニウムに強力なエックス線を当てて核爆発の瞬間に近い高温、高圧状態をつくり、反応を調べるものだ。臨界前核実験を補完する最新の実験である。

大爆発を伴う臨界には至らない。このため米エネルギー省傘下の核安全保障局(NNSA)は、地下核実験などとは別だと位置付けている。
だがこのような実験ができるのも、米国が地下、地上、水中で千回以上の核爆発を重ね、膨大なデータを蓄積しているからにほかならない。

これを前例として是認すれば、核開発をあくまで継続しようと考える国がほかにも出かねない。「持てる国」の横暴は決して看過されるべきではない。広島、長崎から粘り強く声を上げる理由でもある。

NNSAは年に4回、核兵器の維持に関するさまざまな実験の実施回数を発表している。核開発を断念するよう北朝鮮に圧力をかける時期であろうがなかろうが、お構いなしである。一貫した方針に見える。

核兵器廃絶を求める国際世論への配慮よりも、米国内世論へのアピールを優先しているのだろう。Zマシンの実験などが、包括的核実験禁止条約(CTBT)の批准を実現させる切り札になるというのだ。

条約批准の権限を持つ上院では、共和党が「米核戦力の優位性が崩れる」と批准に抵抗している。一方、オバマ政権は「爆発を伴わない実験であれば、いくらでも可能だ」とCTBTの抜け穴を前面に掲げて説得する。8千個近く保有する核弾頭の維持管理にも、膨大な予算を割いている。

国際社会が発効を悲願とする条約が、米国では核実験を温存する根拠に使われる。大いなる矛盾ではないか。

「核兵器なき世界」の足踏みが、オバマ氏の本気度だけの問題ではないことも示していよう。核兵器に固執する国にどれほど厳しい目が向けられているか。被爆地から米世論に働き掛けることを、さらに心掛けたい。

ところが日本政府の姿勢は、広島、長崎からの訴えに水を差している。菅義偉官房長官はきのう、米国に抗議するつもりはないと明言した。

米国は、核兵器の維持管理策が「同盟国を安心させるためだ」と繰り返し表明している。責められるべきは米国だけではないだろう。核兵器廃絶を唱えながら、米国の核の傘を求める被爆国のちぐはぐさをも、今回の実験は示してはいないか。

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朝鮮学校の完全排除に反対しよう! 高校「無償化」施行規則改定へのパブコメ

みなさんが恐れている自民党政権が最初にやろうとしているのは、在日朝鮮人への抑圧です。つまり、朝鮮学園の高校「無償化」からの完全排除です。政府がパブリックコメントを募っているという情報が回ってきたので、筆者も反対のコメントを出しました。みなさんも反対のコメントを出してください。

パブリックコメント投稿フォーム(1月26日まで)
 
高校「無償化」──といっても、公立高校以外にとっては事実上は通学補助金ですが──からの朝鮮学園の排除は、たんなる教育上の問題ではありません。「拉致」を口実とした在日朝鮮人への差別と迫害を、3年前に日本政府が公然と煽った出来事として、理解しなければなりません。差別的な政策を導入したのは民主党で、それを自民党は固定化しようとしているだけだということも、念頭に置いておかねばなりません。戦後の日本政府は、朝鮮学校を拒否し、抑圧し、潰せないと分かるとできるかぎり制度外に置こうとしつづけてきたという歴史的文脈も、忘れてはいけません。日本政府が「拉致」を口実にする一方で、戦後日本が維持してきた在日朝鮮人への差別および朝鮮民主主義人民共和国への敵対政策を問う声が、日本国内でますます弱まっているという事実を、直視しなければなりません。こうした背景において、現在このような事態が起きていることを、理解しておかねばなりません。

テクニカルな説明もしておくと、高校「無償化」施行規則第1条第1項第2号の「ハ」だけを削除する案に、コメントが求められています。法律的には、この「ハ」に朝鮮学園が当てはまるようになっているので、これをなくせば完全排除ということになります。これは省令として、議会を通さずに変えられるということもあって、自民党は真っ先に手をつけたのでしょう。

以下に筆者のコメントも載せたので、参考になるようであれば利用していただいて構いません。改定反対のコメントを送ってください。

パブリックコメント投稿フォーム(1月26日まで)

(以下、筆者の投稿コメント)

(高校「無償化」施行規則の改定(第1条第1項第2号ハの削除)に反対します。現在適用保留となっている朝鮮学校を排除するものに他ならないからです。

下村文科省は「拉致問題に進展がない」ことを理由に挙げましたが、この発言には大きな問題があります。これはつまるところ、「拉致問題」のために朝鮮学園に通う子供たちの権利を抑圧しよう、という呼びかけを意味します。あなたがたは恥を知らないのでしょうか。

もっとも、すでに民主党政権が、約3年におよぶ適用保留の措置によって、事実上、そのようなメッセージを日本社会に送りました。朝鮮学園に通う子供たちは「無償化」の適用を受けていないばかりか、「拉致」を口実にした脅迫やバッシングの標的にされてきました。さらには、都道府県などの地方自治体から学園に支給されている(もともとわずかな)補助金すら、攻撃されています。

そもそも朝鮮学園は、日本におけるその他の外国人学校とは存在意義が違います。大日本帝国による朝鮮の植民地化の結果として、日本に渡らざるをえなかった朝鮮人たちが、抑圧された自己の言語と文化を取り戻すため、戦後に作り出したものです。日本が1945年までに行ったことを反省するのであれば、政府は朝鮮学園にいわゆる「一条校」と同等かそれ以上の保障をするのが、当然のことであるはず。

残念ながら、現実に戦後の日本政府がやってきたことは、その逆です。朝鮮学校を否定し、抑圧し、それでも潰すことができないと分かると、可能なかぎり制度外に追いやってきました。

拉致、拉致、といいますが、日本は植民地期に拉致された人々の子孫も含まれる在日朝鮮人にたいして、戦後も抑圧を続けました。朝鮮民主主義人民共和国にたいしても、日本は日米同盟のもとで敵対姿勢をとってきました。この抑圧および敵対の姿勢を改めるどころか、むしろそれを強化しているところで、拉致問題が「進展」しうるなどと、誰が本気で考えるでしょうか。つまり、敵対姿勢先にありきです。わたしはそのような敵対政策に反対します。

以上の理由から、わたしは、朝鮮学園への高校「無償化」の即刻適用と、朝鮮学園へのさらなる公的保障を、政府に要求します。

柏崎正憲

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深まる危機と狭まる視野、または日本に見る「先進国」の末期症状

16日の選挙で、自民党が以前よりますます右傾化して政権に戻ってくることと、東京では右翼ネオリベの猪瀬直樹が石原の後を引き継ぐことが決まったということだが、自民党返り咲きで「お先まっくら」といった論調が、日本の左派(?)陣営では強いようだ。もちろん自民党政権がいいわけはないのだが、そんなわかりきったことを嘆いたり、自民党への投票者への恨み節を口にしているよりも、民主党への「政権交代」以来の三年間が、あるいは過去10年ないし20年間の政治状況の変化が、いったい何だったのかということを、まずはきちんと総括すべきだろう。そのような総括なしに「自民党はいやだ」と言っているだけでは、その自民党にたいする有効な対抗勢力を作り出すことなど、いつまでたってもできはしないし、せいぜい、第二、第三の民主党という偽りの代案──より右に寄った代案になっているだろうが──を、また掴まされるだけだろう。

問題設定の見直し

「日本社会の右傾化」という表現は使いやすいし、それでともかくも現状を指し示すことはできる。だが、この「右傾化」という言葉は、「わたし以外のその他大勢」(政治家であれ、選挙民であれ)が右に寄っている状況をばくぜんと思い浮かべ、心をなぐさめることに役立っているに過ぎないのではないか。

より深刻な問題は、この右傾化を食い止め、棒を逆の方向に曲げようとする、左への推力が、政治の場においてますます衰退しているという事態だ。これは、現在の社民党や共産党に投票しないのがいけないということではなくて、左からのオルタナティヴとして選ぶに値する勢力が、最近出てきた新興政党も含めて、議会政治の場には存在していないということである。しかもこの衰退は、弾圧ではなく左派陣営の日和見主義的な後退──しばしば「現実を見ろ」とか「古い考えに囚われるな」といったうたい文句で正当化される──の結果に過ぎない。たとえば、1990年ごろまでは4分の1から3分の1の議席を維持していた旧社会党が、社民党になってからは散々な状態になっているのは、弾圧のせいだったろうか。あるいは、右傾化していく選挙民に見放されていったせいだろうか。そんなことを本気で主張する「左派」がいたとしたら、日本の対抗運動の政治的健忘症もいよいよ末期症状であろう。

結局のところ、過去20年来の日本の政治状況において進んでいるのは、支配的・主導的勢力と反対・対抗勢力との政策やイデオロギー上の距離が、ますます狭まっていっているという事態でしかない(この傾向は欧米の他の帝国主義諸国にも共通しているのだが)。そのことの認識が「右傾化」の認識において欠落しているとすれば──どうもそう思えることが多いのだが──、この語は左派がみずからの政治的責任を自分にたいして覆い隠すために使われているに過ぎない。

現実を直視するためには、まずは問題の立て方から見直したほうがいいだろう。

問い1: 近年の日本において、政治的な意思決定や社会的な価値判断の基準が、ますます保守的、権威主義的、国家主義的、そしてレイシスト的な方向に進んでいるのは、なぜなのか?

この問いそのものが不適切なわけではない。とはいえ、この問いは2000年代にはしばしば、ある特定の文脈というかクリシェ(紋切り型)に結びつけられてきたように見える。かんたんに言えば、ネオリベと保守化との同時進行というストーリーだ。

一方で、公共部門の私営化、市場原理や競争の称揚、富の上層への集中、雇用の不安定化、労働法制の恒常的無視などをつうじて、日本の労働者階級が、とくに下の世代ほど痛めつけられてきたのは、たしかである。他方で、国家の縮小や「官から民へ」といった表向きのスローガンにもかかわらず、実際のネオリベが市場原理の貫徹のために国家の強い権威に訴えることは、どの資本主義国においても見られる。だが、これらの二傾向はしばしば、あまりに単純に直結させられなかっただろうか。「経済的に周縁化され社会的に承認されない、新自由主義の犠牲者たちこそが、国家やナショナリズムのような権威にすがっている」といったたぐいの解釈は、小泉・自民党の2005年衆院選での大勝のときなどに、さかんに用いられた。その後、思想・社会系の読書界における雨宮処凛や赤木智弘あたりの流行を介して、この解釈は増幅されていったように見える。排外主義市民運動(在特会など)が目立ってきたときにも、このストーリはしばしば口にされていた。

ネオリベによって痛めつけられた下の階級の不満が、ポピュリズムや権威主義的ナショナリズムに動員されているという分析は、お手軽なわりには、現実からそう外れているようには見えない。しかしながらこの診断は、痛めつけられている労働者階級の不満が、なぜ国家主義的な方向に大きく回収され、別の政治的方向には大きく組織化されていかないのか、という問題の検討を欠いている。したがって、第二の問いが立てられねばならない。

問い2: ネオリベの推進をつうじて高まっている社会的不満は、なぜ権威主義や国家主義へと回収されるのか。

単純化された「ネオリベと保守化」のストーリーにおいては、この問いは無視されている。だが無視されることによって、この問題にはすでに、明に暗に回答が与えられている。すなわち、ネオリベ的な労働条件や経済政策や社会統制によって痛めつけられている人々の多くは、経済的な基盤も弱く社会的にも疎外されているので、権力や権威にいとも簡単に同一化してしまう、というたぐいの説明だ。

こうして、一方では、ネオリベは万能の勢力や政策原理として過大評価され、その近視眼的な矛盾に満ちた諸側面(しばしば行き当たりばったりで長期的展望を欠いた、行政部門の削減や市場競争の促進の諸政策)は無視される。他方では、ネオリベへの代案が保護主義的、テクノクラート的になる。権威への同一化をその基本性格とする今日の労働者にたいして、労働者階級に固有の利害を代表する勢力を組織化し、資本が支配する社会を変革していこうという呼びかけは、もはやなされない。建前上は労働者組織の看板を守っている党や勢力のほとんどが、ネオリベ改革によって崩された福祉的・社会的制度を再設計し、そこにネオリベの犠牲者を吸収することをしか目標にしていないのである。

したがって、今日の政治の舞台で言われる左右のちがいは、よりソフトな国家主義かよりハードな国家主義かのちがいでしかない。政治的スペクトルが実質的にはますます狭まっているにもかかわらず、その狭いスペクトルの内部で左右の相互非難が活発化するさまは、まったくもって滑稽である(民主党支持者と自民党批判者、米国の民主党支持者と共和党支持者など)。だがその滑稽な事態が、日本のみならず、程度の差はあれ、「先進」資本主義国のどこでも進んできたのである。ネオリベ化の局面にかぎっても、左翼ケインズ主義の挫折のあと早々に路線転換したミッテランのフランス社会党、サッチャー主義によってお膳立てされたワークフェア体制を変えるのではなく継承・発展させたブレアのイギリス労働党、再統一後の通貨変動および財政赤字をもちなおせず失脚したCDUに代わってネオリベ的な競争推進政策を軌道にのせたシュレーダーの赤緑連立政権など、枚挙にこと欠かない。

しかも、いま挙げた英仏独の社民主義諸政党は、対内的によりソフトだっただけで、対外的には保守政党と少なくとも同等にハードであった。ミッテランは短い逡巡のあと軍縮から核開発の積極推進へと転換した。赤緑連立政権の旧ユーゴスラヴィアへの軍事介入や、ブレア政権によるイラク戦争への参戦決定は言うまでもない。もちろん日本も同様である。政権入りが日程にのぼった旧社会党による日米安保肯定・自衛隊容認への転換や、民主党下における新防衛大綱の策定、自衛隊海外派兵のさらなる推進、朝鮮民主主義人民共和国への「制裁」政策の継承などだ。

問いに戻れば、その答えは結局のところ、ネオリベ的な政策や社会統制にたいする不満を表現するうえで、政治の場には国家主義的な選択肢しか存在していないという点に求められる。ますます政治的スペクトルが狭まり、実質的なちがいに乏しい選択肢のどれかをとること以外の政治的決定への参加の回路もまた狭まる一方なのだから、ネオリベへの不満が、対内的には多少ソフトで保護主義的な国家主義に回収される──たとえば民主党政権──のも、まったくもって当然のなりゆきである。議会政治の場において政治的スペクトルを左に押し広げる推力が、また議会外においても対抗的で解放的な政治的要求の回路をふたたび作り出していく動きが発展しないかぎり、実質的な社会変革への展望など開けることはないだろう。そのような認識こそが、ほんとうの意味で現実主義的ではないだろうか。ますます狭まる政治的スペクトルへの自己適応をつうじて、スペクトルの狭小化にみずから貢献することは、ましてやそれを現実主義として正当化すること──他人にたいしてであれ、自分にたいしてであれ──は、いい加減やめねばならない

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【翻訳】トルコにおけるクルド人ハンガーストライキの背後で(後)

(同翻訳記事の後半部。前半はこちら。)

また前置きを。

昨年は「アラブの春」がもてはやされたが、チュニジアおよびエジプトでの体制転換は、(イスラエルおよびトルコを含む)NATO諸国および湾岸アラブ諸国の許容範囲に収められたし、リビアでの政権転覆は、これらの全面バックアップにより完遂された(同様のことがシリアで仕掛けられている最中である)。エジプトでは民衆的抗議が広がっているが、「西側」またはグローバル・ノースからは、昨年の「アラブの春」のときのような(異常なほどの)熱意のこもった注目は集まっていない。ムルシおよびイスラム同胞団は、本質的に反動的であり、サダトおよびムバラクの時代からの本質的転換を約束するものと見ることはできようもないのだが。

ただし、昨年にムバラク政権に反対したエジプト民衆そのものが反動的だということでは、もちろんない。サミール・アミンが強調しているように、エジプトでますます多くの被抑圧・被搾取人民がラディカルになっていっている。欧米および親欧米勢力にまわりを固められ、圧迫された「民主化」の局面を脱しうる推力が、エジプトにはいまも存在している。真の意味での「アラブの春」に連帯するならば、欧米に仕立て上げられたそれをではなく、そのような推力をこそ支持すべきだ。

いま北クルディスタンおよびトルコで起きているのも、いくつかの意味でエジプトでの現況と同じことなのだと、以下に翻訳した記事を読んで、あらためて気づく。ますます多くの被抑圧・被搾取民衆が政治的にアクティヴになり、ラディカルになっている点においてもそうだし、そのような変革へのダイナミクスが、トルコや他のNATO諸国にとって不都合であるという点においてもそうだ。それらは帝国主義・親帝国主義陣営が望んでいない「春」なのであり、またそれゆえに、真に「春」と呼ぶに値しうる。

北クルディスタンで先行して進められてきている「民主的連邦主義」または「民主的自治」の動きについても、なるべく早く紹介したい。

【以下翻訳】

(原文 Behind the Kurdish Hunger Strike in Turkey, by Jake Hess, in Merip: Middle East Research and Information Project, on 8 Nov. 2012

トルコにおけるクルド人ハンガーストライキの背後で

ジェイク・ヘス 中東研究・情報プロジェクト(MERIP) 2012年11月8日

前半

公正発展党(AKP)の対クルド戦略

実際、エルドアン首相は2007年以来、国営のクルド語テレビ放送や学校教育におけるクルド語の選択科目を導入するか、クルドの合法的な権利運動への弾圧を強化するかのあいだで、揺れ動いてきたように見える。しかしながら、これら二つの選択肢は矛盾どころか調和する。エルドアンは限定的な改革を進め、ときには懐柔的な声明を発しながら、それと並行して、大量のクルド人活動家を投獄してきた。それによってかれは、それまでクルド保守諸政党に投票してきたクルド人口にも支持基盤を広げつつ、クルド平和民主党(BDP)やクルディスタン労働党(PKK)を孤立させ、トルコ国家にとって好ましい政治的解決を呑む以外にはない状況へと、かれらを追い込もうとしてきた。

いまハンストを決行しているクルド人政治囚たちの多くは、2009年からの反KCKキャンペーンで逮捕されている。こうした人々は、基本的には、以上のようなクルド人運動の解体を狙う長期的計画のための人質である。かれらは、膨大な数の訴訟と、その主要な要求を拒否する政府を前にして、政府が体面を失って動かざるをえない状況を作るために、劇的な方法をとったのだった。

クルド共同体連合(KCK)のメンバー逮捕は、そしてハンガーストライキは、十年以上前からのなりゆきの、とりわけ、エルドアンのAKPとBDPとの対立の、結果である。発足直後の時期のAKPは、一般につぎのように見られていた。すなわち、「ケマル主義国家において脇に追いやられてきた」、イスラム主義、アナトリアのビジネスマンやトルコ人リベラルを含む「さまざまな宗派、民族、社会・政治勢力にはたらきかける、広範な民主的プラットフォームをなす」連合政党として(M. Hakan Yavuz, Secularism and Muslim Democracy in Turkey, Cambridge, 2009, p. xi.)。AKPの改革者としてのイメージと宗教的ルーツに、多くのクルド人が惹きつけられた。部分的にはクルド人の支持者たちのおかげで、AKPは創設後まもない2002年に議会の最大多数派となった。

AKPの政治の場への到達のために、BDPの選挙における成長は行き詰まり、そして後退した。その前身政党は、1995年から2002年にかけて、選挙ごとに票を伸ばしていたのだが。1995年、BDP(当時はHADEP)は、国民議会で4.2パーセントを得票しており、2002年には6.2パーセントにまで到達していた。だが2004年には5.1パーセントに下がり、2007年には、過去最低の4パーセントの票しか得られなかった。BDPが失った票は、AKPに流れた。クルディスタン、またはトルコ南東部のクルド人が多数派を占める地域で、AKPは2002年に32.5パーセントの票を占め、2007年には55パーセントを得たのだった(Taraf紙、2009年8月18日)。

実際、AKPがクルドの票をもっとも多く集め、BDPの得票がもっとも少なかった、2007年の選挙は、AKPの対クルド政策の重要な転機をなしている。その成果は印象的であったが、政権与党であるAKPは、二つの点において選挙結果を決定的に読み違え、それが今日の趨勢である抑圧と行き詰まりへとつながったように見える。

第一に、クルディスタンにおいて過半数の票を得たことで、クルディスタンでの支持を永続的なものとして当てにできると、AKPは判断したように思える。党指導者たちはしばしば、党内に75人のクルド人国会議員を擁していることを自慢し、自分たちがトルコのクルド人の「真の」代表者であるかのように振る舞っていた。2009年の選挙にさいして、BDPの伝統的な本拠地であるディヤルバクルやバトマンで勝利したいと、エルドアンが宣言したときには、この目標は達成できると信じていたようである。

ところが、このAKPの分析は、2007年の選挙を取り巻いていた特殊な状況を無視している。その年の4月、議会がAKPメンバーを首相に選出しようとすると、トルコ軍は介入の脅しをかけた。AKPのイスラム主義的な前身政党が1997年に追放されたときの「穏健なクーデター」や、軍によるトルコ民主主義の転覆の長い歴史が、思い出される。したがって、2007年選挙はある意味で、政治における軍の役割にかんする国民投票であった。軍の警告によって、ケマル主義的な共和国から排除された諸勢力の連合としてのAKPの初期の評判は、さらに強まった。そして多くのクルド人が、将軍の干渉に抗議の意志を示すために、AKPの側についた。それと同時に、AKPの慎重な自由化や、新たな憲法を起草する約束によって、一部のクルド人はAKPを、クルド問題の政治的解決への最大のチャンスであると見なした。したがって、2007年の選挙は、クルド運動の中心的要求がAKPのもとで実現されることへの期待を反映していたのであって、これらの目標の拒否や再考を意味していたわけではないのである。

AKPの第二の大きな計算違いは、第一のそれから派生したものだ。クルディスタンでの選挙結果をもって確固たる支持を得られたと勘違いしたために、AKPは2009年の地方選挙でも目覚ましい成果を期待し、BDPとの協力なしにクルド問題を解決できると考えた。BDPの得票率減少というもうひとつの選挙サイクルが、クルドの政治運動を弱めたことは、疑いようがない。政権党であるAKPの見立ては、こうであった。政治的な機運が自分たちの側にきているので、クルド運動は基盤を失うだろう。そして、獄中の数千のクルド人指導者たちは譲歩の交渉に入り、AKPはトルコのもっとも扱いにくい問題において独自の「解決」を強いることのできる地位に就くだろう。

AKPは正真正銘の抑圧と政治的孤立化との組み合わせにより、クルド運動を掘り崩す戦略に乗り出した。2007年、ディヤルバクルの検察庁は、KCKメンバー逮捕の第一波を正当化するために利用できる証拠を集め始めた。逮捕劇はまさに、2009年3月の地方選挙の2週間後に始まったのだった。2009年1月、政府は国内初のクルド後のみによるテレビチャンネルの放映を開始させた。3月の選挙の2、3週間前、クルド語の国営ラジオ放送局の計画を発表したさいに、アブドゥラー・ギュルは、クルドにかんする「良いこと」が起こるだろうと述べた。かれは「民主的開放」 をほのめかしたのである。そのころ、イラク・クルディスタンでは政府後援の「クルド人会議」が、2009年4月に予定されていた。この会議は、親トルコ的なクルドの人物に、PKKの武装解除を呼びかけさせることを目的としていた。これらは、選挙戦でBDPを負かすことができたとイスラム主義者たちが考えていたことを示している。

そのような皮相な政治的術策でクルドの選挙民を惹きつけようとしたそのときにも、AKPは国内西部で噴出するトルコ・ナショナリズムの流れにみずからを位置づけていた。米国の後援のもと、PKKにたいする軍事作戦は強化された。2008年11月、クルド都市のハッカリでの講演において、エルドアンは「ひとつの国民、ひとつの旗、ひとつの母国とひとつの国家体制」と語った。かれはクルド問題にたいして時代遅れの国家主義的・ナショナリスト的な手法をとったのである。同時にかれは、BDPがPKKを「テロリスト」として非難するまで、BDPとの会談を拒否すると述べた。それは、数百万のクルド人が、「テロリスト」の政治運動を支援しているか、少なくとも支持しているとして、侮辱する政策であった。クルド人がAKPを反国家政党ではなく国家政党だと見なすようになってきているという考えに、ほとんど疑いはもたれなかったのである。

結局、政府はどちらの方法においても成功しなかった。2009年の選挙でAKPは、期待していた勝利のかわりに、AKPは大きな後退をこうむったが、それにたいしてBDPは、その勢力下におかれる自治体の数を、以前の倍に近い100にまで増やした。「クルド会議」はぶしつけに取りやめとなったが、それは、AKPの内相ベシル・アタライ(Beşir Atalay)の要請を受けてのことだったようだ(Today’s Zaman紙、2009年4月19日)。ディヤルバクルの党施設でクルド人たちはBDPの歴史的勝利を祝った。

それでも政府は「民主的開放」を推進した。クルド問題を解決しPKKを解体するための計画として売り込まれたものの、その命運はもはや尽きている。政治的解決の可能性について率直に話し合うというエルドアンの決定は、当然ながら過去のものとして見なされた。ただしこの政策の主要な目的は、正真正銘の話し合いによる解決ではなく、数多くのクルド人活動家を逮捕しているさなかにも、控えめな改革を推進して、BDPとPKKの双方を孤立させることにあったが。当時のAKP副党首であったフセイン・チェリク(Hüseyin Çelik)は、まさにそう認めていたようである。AKPの先導がうまくいけば、BDPおよび超民族主義者である民族主義者行動党(MHP、トルコ民族主義、右翼)は「周辺的」な政党になるだろうと、かれはイスラム主義に共感的な日刊紙ザマンにたいしてコメントしていた(Zaman紙、2010年4月4日)。

2009年8月、オジャランはPKKにたいして、メンバーを「和平団」としてトルコに送り、PKKの政治的解決への取り組みを示すよう、指示を出した。数多くのクルド人が、祝いの集会で和平団を歓迎し、平和が近づいてくることを祈った。だが、この機会を捉えて、エルドアンのやり方は「テロリスト」を励ますと主張する者もいた。BDPの前身政党であるDTPが12月に最高裁で閉鎖されると、当初の多幸感は消し飛ばされた。まもなくPKKの代表団にたいする裁判がはじまり、逮捕されなかった者は2010年1月、北イラクにあるPKK本拠地へと戻った。

1980年軍事クーデター後に作成された憲法の2ダースにおよぶ修正をめぐる、2010年9月の国民投票は、「民主的開放」が復活するかもしれないという、つかの間の希望的観測を引き起こした。諸法案は圧倒的な票差で賛成を得たが、クルド人の大半は、BDPによるボイコットの呼びかけを支えた。BDPの呼びかけによれば、憲法修正は、民主的改革の復活ではなく、AKPの政権党としての地位を固めることを狙いとしていた。それ以来BDPは、クルド問題の解決における新たな市民憲法の起草の重要性を強調している。AKPがたびたび誓いを立ててきたにもかかわらず、議会の憲法委員会はわずかな進展しかもたらさなかった。

公衆の眼前でのこうした出来事と並行して、トルコ国家とPKKとの密談がおこなわれていた。だがそれは、2011年6月の議会選挙でBDPが大きな成果を収めた後、アンカラは会談を打ちきった。

対KCK作戦

「民主的開放」とトルコ国家・PKK間の会談は、対KCK作戦の陰で進められた。この作戦は、2009年選挙でのBDPの勝利の2週間後、PKKが新たに停戦を宣言してからわずか1日後にはじまっている。短期的には、トルコ政府は何千人もの逮捕者の身柄をもって、クルド問題にかんする交渉チップおよび大きな優位を得た。長期的には、1999年以降の新たなクルドの指令官級の解体が狙いであった。1999年は分水嶺と言える年であり、BDPの前身であるHADEPによるはじめて地方政府入り、トルコのEU加盟申請、PKKによるその後5年におよぶ停戦の宣言があった。

1990年代、クルド諸政党の少なくとも112人のメンバー、および数多くのジャーナリストや人権擁護者が、政府によって暗殺されている。だが、1999年からの楽感的で相対的に平和な時期、やはりトルコのEU加盟に向けた試みの一部として、クルド・アイデンティティの表現の許容という、政府のためらいがちのジェスチャーがなされると同時に、こうした司法外での殺人は見られなくなる。クルド語での限定的な放送を定めた条項が採り入れられ、国内初の私営クルド語コースがはじまり、トルコ南東部の憎まれていた「非常事態」体制は取りやめられた。

この機を捉えて、BDPはその隊列を、とくにその青年部や女性部を固めた。クルド人の政治家たちは、いまやかれらの勢力下にある自治体を勢力基盤およびプラットフォームとして、クルドの政治的アイデンティティを発展させ、自治の経験を得ていった(トルコのクルド諸政党のより詳しい歴史として、Nicole Watts, Activists in Office, 2010 を参照)。この時期、将来の多くのBDP指導者たちと同様に、議会に選出され党を率いているセラハティン・デミルタシュ(Selahattin Demirtaş)や、のちにディヤルバクルの市長となるオスマン・バイデミル(Osman Baydemir)のようなクルド知識人たちもまた、市民社会のイニシアティヴ、とりわけ人権活動に、深く関わった。これらの活動家たちのルーツは、路上でのアジテーションと議会での討論との混成という、BDPの独特な政治スタイルを説明してくれる。

「この解決法を生み出したのは国家だ」

対KCK作戦で逮捕された若い活動家たちが、ハンストで指導的役割を担っている。9月12日、1980年の軍事クーデターから32周年にあたるこの日に、ハンストは開始された。参加している女性収監者9人のうち約半数が、逮捕時点で30代前半かそれ以下の年齢である。これらの女性は、しばしば論じられるクルド「新世代」の代表者である。この世代は、マズルム・テクダー(前編参照)のように、1990年代のもっとも暗い戦争の時代に成年に達し、その人生において真の平和をほとんど知らない。

予想のつくことだが、PKKが追従者にみずから命を投げ出すよう強いているという非難が、一部でなされてきた。PKKもその外部団体も、それを毅然と否定しているが。KCKのスポークスマンであるロージュ・ウェラト(Roj Welat)はEメールでこう答えた。「これはハンスト参加者たちがみずからの考えや意志で、望んで決めたことです。KCKはそれにいかなる関与もしていません」。

クルド人ジャーナリスト、ムラト・チフチ(Murat Çiftçi、前編のハムディエとは無関係)は、かれ自身「新世代」のひとりだが、ある記事を書いたために、2012年初期に3ヶ月間、獄中で過ごした。かれはその後、9年近くにおよぶ禁固を宣告され、現在は上訴中で身柄を解放されている。今回のハンストを理解するには、トルコ政府の政策を見ればいいと、かれは言う。「このような解決法を生み出したのはトルコ国家であると、わたしは思っています。何千人もが道理もなく獄中にいるのですから。わたしが感じていることを、みんなが感じているんです。この判決は、われわれがよき活動家であるからではなく、たんにクルド人であるがために下されたものであると。収監によってわれわれを脅し抑圧しようとしているのでしょう。でもそれは逆の結果につながりました」。

ムラトやほかの解放されたクルド人政治囚によれば、ハンストは房ごとに独自の方式で組織化されており、外部でのPKKの指導による公認は必要とされていない。異なる施設の収監者たちのあいだでの協力があるが、ただしムラトによれば、だれも抗議への参加を強制されない。かれは言う。「監獄では、クルド人収監者の名における意思決定を可能とする、独立の組織形態があります。ハンストへの参加希望者は、自分自身の名においてそう志願します。わたしが獄中にいたときにも、同じことが起こりました。20人がハンストを決定しましたが、またたく間に参加者は350人となったのです。わたしもできる限り参加したかったのですが、病気だったので止められました。つまり、だれも参加を強制されないのです。これは完全に自発的なものであって、ときには志願者を受け入れないことさえああります」。

今回のハンストははじめての試みではない。類似の要求をかかげた類似の行動が、2012年の初期にもなされた。そのときには、15日目にKCKがメディアに声明を出したことで、ハンストの収拾に成功している。声明にはこうある。「抵抗の過程で死者を出すべきではないという〔オジャランの〕呼びかけに沿って、全ての監獄での行動はいますぐ終えられるべきである」。ただし、つぎのような留保も加えられている。「抗議は活動家たちの主導のみによって進められた。このハンストは警告である。もし〔オジャランの〕状況になんの改善もなければ、新たな行動が、ハンストも含めたより包括的な方法において、発展していくことだろう」。KCKのスポークスマンであるウェラトは、現在のハンストを、「もちろん」先行のハンストを踏襲したものだと語っている。「ハンスト参加者は、その正統な要求にトルコ政府が応じた場合にのみ、終わるでしょう。かれらは公にたいして、まさにそのように宣言しています。われわれは政治的、民主的、平和的解決に向けて努めてきたのです」。

秋のハンストは、世論を動かし、議論を呼び起こしている点において、春のそれよりもはるかに成功している。それはすなわち、死者が出る前にそれを終わらせることがより難しくなっている、ということでもある〔前編のまえおきのとおり、11月18日に死者なく終結〕。多くのクルド人が、ハンスト参加者によるセルヒルダン(serhildan)──クルド版のインティファーダ──の呼びかけに耳を傾け、南東部のいたるところで連帯行動が日々おこなわれた。ハムディエ・チフチはこう語る。「7歳から70歳まで、だれもが沈黙を破っています。こうした問題から距離をとってきたようなクルド人さえもが、行動に参加し、権利を訴えています」。ハンスト50日目〔10月30日〕に設定された特別な抗議行動に言及しつつ、ムラト・チフチはこう述べた。「10月30日に、クルド地域での生活はストップしました。民衆蜂起は日々拡大しています」。

ハンストが60日に達しようとしている現在、あらゆる人の目がエルドアンに注がれている。かれが最初に見せた反応のひとつは、ハンストの存在すら否定し、数百どころかたった一人が食事を拒否しているのだと主張することであった。かれはまた、BDP指導者たちが羊肉ケバブで夕食をとっている数ヶ月前の写真を挙げながら、かれらを偽善者と非難した。ハンスト参加者たちはと言えば、要求が通らないかぎり抗議をやめないことを再度確認し、数日後には参加者が数千にも増えているだろうと請け合っている。

11月5日、閣議後におこなわれた記者会見において副主将ビュレント・アルンチ(Bülent Arınç)が報告したところでは、エルドアンは法相にたいして、法廷でのクルド語による抗弁をすべての容疑者に許可するために、必要な手段をとるよう命じたという。また、法相の許可がおりれば、オジャランは弁護士と接見できるとも伝えられている。(それにつづく弁護士の申請は、オジャランの監獄へのフェリーが「稼働していない」との理由──2011年6月から役人はそう主張しつづけている──で、取り下げられたが。)しかしアルンチは、母語による教育──ハンストで掲げられている第三の要求──のことには触れないままだった。これらは、解決が切迫している兆しである。そのあいだにも、ハンスト参加者の側では、時計の針が刻一刻と進んでいるのだが。

トルコのメディアで回覧された、ディヤルバクルからの10月の手紙に、テクダーはこう書いている。「体が痩せこけ消えるまで、われわれは状況への介入を試みます。われわれの未来をかたちづくるために。四方を壁に囲まれていては、この専制的な抑圧にたいして、他にたたかう方法はないのです。」

(了)

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【翻訳】トルコにおけるクルド人ハンガーストライキの背後で(前)

9月12日にはじまった、68日間にわたる北クルディスタン(トルコ国内)のハンガーストライキが、アブドゥラー・オジャランの呼びかけで、11月18日に終了した(Kurdish prisoners in Turkey end a 68-day hunger strike, after Ocalan’s appeal, EKurd.net, 18.11.2012)。このハンストの動向に注目しつつ、何か書きたいと筆者は思っていたが、そうこうしているうちにハンストが先に終わった。2ヶ月以上にわたる長期ハンストだったが、かろうじて死者は出なかったという。ハンストはまた、トルコ国内だけでなく国際的な注目も集め(ドイツのラジオなどでも報道されていた)、クルド問題が未解決であることを改めて国内外に知らしめた。そうした意味でのハンストの成功を記念し、いまからでも、北クルディスタンの現況を日本語で詳しく伝えておきたい。まとまった英語の論稿が出ているので、それを翻訳することにする。

論稿は背景を的確かつ詳細に説明しているので、筆者が蛇足をつけ加える必要はあるまいが、論稿以後の状況について。トルコ首相エルドアンは、ハンスト終了後、オジャランと会談する用意があると発言したそうだが(Turkey’s Erdogan says state can talk to jailed PKK leader Abdullah Ocalan to solve Kurd issue, EKurd.net, 20.11.2012)、以下の論稿でジェイク・ヘスも指摘しているように、かれの「クルド問題解決」にかんするこれまでの発言が実行されたためしはなく、かれの発言を安易に信用することはできない。

また、論稿では西クルディスタン(シリア国内)についても触れられているが、西クルディスタンについては、筆者は7月までの状況について記事を書いている。そのシリアでは、19日に「自由シリア軍」とクルドPYDとの衝突が起きている(Dozens die as Kurds, rebels clash in northern Syria, AFP, 20.11.2012, in Ahram Online)。今後、シリア反体制派と、事実上の自治をはじめている西クルディスタンとの緊張が高まっていくかもしれない。この動向を追うには、つぎのような背景を念頭に置く必要がある。以下のヘス論稿および筆者の記事でも指摘してあるように、シリア反体制派は西クルディスタンの権利を否認していること、またシリア反体制派は欧米およびトルコ、イスラエルの支援を受けたセクト主義などの諸勢力の集まりであり、シリアの政情は蜂起ではなく内戦、しかも諸外国の代理戦争と呼ぶべきものとなっている点。

【以下翻訳】

(原文 Behind the Kurdish Hunger Strike in Turkey, by Jake Hess, in Merip: Middle East Research and Information Project, on 8 Nov. 2012

トルコにおけるクルド人ハンガーストライキの背後で

ジェイク・ヘス 中東研究・情報プロジェクト(MERIP) 2012年11月8日

マズルム・テクダー(Mazlum Tekdağ)の話を聞くだけで、なぜ700のクルド人政治囚がトルコでハンストを続けているのかが、よくわかる。かれの父は経営していたディヤルバクルの菓子屋の前で、1993年に国家によって殺された。マズルムがまだ9歳のときのことだった。その2年後、かれのおじのアリは、 JİTEM(憲兵隊諜報・反テロ部隊)という、軍の後ろ盾を受けた死の部隊に誘拐された。マズルムはおじを二度と見ていないが、元 JİTEM のエージェントがのちに伝えたところによれば、かれは6ヶ月にわたり拷問を受けたすえに殺され、死体はディヤルバクルのシルヴァン地区の道端で焼かれたという。

そのような経験から、トルコでは数多くのクルド人が、結成当初から非合法化されている、クルディスタン労働党(PKK)の武装抵抗運動に加わっている。しかしマズルムや、他のやはり数多くのクルド人は、親クルド諸政党において、非暴力の手段をつうじて自民族の権利のためにたたかうことを選択した。それらの政党はトルコ国家に活動を許可されていたが、その後禁止された。マズルムがはじめて逮捕されたのは2001年、かれが17歳のときだった。かれはいま28歳になるが、投獄されてから3年半になる。いかなる罪も犯していないにもかかわらず、だ。かれやその仲間がクルド語で抗弁することをトルコ法廷が許可しなかったので、かれは密室裁判を受けた。かれらはみなトルコ語を流暢に話すことができるが、政治的主張として、そうしないのである。

2002年以来、トルコ国家はじょじょに、慎重に、国内のクルド人の政治運動にたいする態度をやわらげてきた。政権党である公正発展党(AKP)の内部で主張をしていくことを選択したクルド人も、なかには居る。しかしながら、他の大半のクルド人にとって、選択肢は2つだ。マズルムのように投獄される危険を避けながら、平和的に要求をおこなっていくか、それとも、PKKとともに武器をとるかだ。これこそが、マズルムや他のクルド人政治囚によるハンストの背景である。ハンストは9月12日にはじまった。要求として掲げられているのは、クルド語による教育や裁判を受ける権利や、2011年7月から弁護士との接見を禁じられている、投獄中のPKK指導者アブドゥラー・オジャランの処遇改善だ。

ディヤルバクルにあるディジュレ大学の法学教授、ワハップ・ジョシュクン(Vahap Coşkun)は、インタビューにこう答えた。「これらは正当な要求です。ハンスト参加者をクルドの大部分が支持しています。クルドの政治的選好はさまざまかもしれませんが、言語の使用権は、誰もが同意する要求事項だと言えるでしょう」。7月には数百のクルドNGOが、オジャランの隔離収監に抗議する共同声明を発している。ジョシュクンによれば、そのような隔離には「いかなる法的根拠もない」。現行のハンストにおいて目をひくのは、トルコ人のNGOや知識人(多くの学者や作家を含む)も、ハンストの参加者および要求を支持している点である。イスタンブールおよびアンカラにある、トルコで最高水準の大学では、連帯のデモンストレーションが行われている。

解決を目指して

1990年代はじめ以来、トルコにおけるクルド人の政治運動は、交渉をつうじて、トルコ国境内部での自治および権利拡大にもとづいて、クルド問題を解決することを呼びかけてきた。それはPKKも含めてである。西欧のメディアはつねに、PKKのことを「分離主義者」という誤った性格づけとともに報道しているが。PKKの側からは、対話に進むための停戦宣言が出されてきたが、トルコ軍がそれに応じて軍事行動をやめたことはなかった。政府側も、停戦宣言を退け、PKKの殲滅の宣言を繰り返すのが通例である。

2009年以来、クルドの権利運動の担い手や弁護士、ジャーナリストなど、約8千人のクルド人が、トルコ警察の作戦行動により逮捕されてきた・クルド共同体連合(KCK)の弾圧が目的だと言われている。KCKは諸団体の包括組織で、PKKも含まれており、したがってやはり非合法化されている。実際に、被拘留者のほとんどは平和民主党(BDP)の関係者である。BDPは合法政党であるが、PKKと政治基盤を共有しており、同じ要求を掲げている。

この新たな抑圧の影で、2009年から2011年なかばまで、トルコ国家とPKKの密談が行われていた。それに並行してオスロでも、また終身刑のオジャランが収監されているイムラル島(İmralı)でも、会談があった。何が話されたのかについては、情報は少ない。ただし、和平が近づいている証拠はある。2011年にリークされたオスロでの会談の録音で、トルコ諜報部長官ハカン・フィダン(Hakan Fidan)が述べていたところによれば、トルコ首相エルドアンとオジャランは、たがいの見解の「90から95パーセント」に合意していたという。オジャランが1999年に捕われて以来PKK指揮官を務めているムラト・カラユラン(Murat Karayılan)は、双方は解決に「非常に近いところ」に来ており、解決への「条件は熟した」と、のちに語っている。

さらには、トルコ社会における和平合意への準備が整っていることを示す証拠もある。いまだにトルコ人の大半にはPKKの評判は悪いが。エルドアンがPKKと交渉したことを野党が批判しているとしても、フィダンの発言が流れたさいに、下からの大きなバックラッシュはなかった。クルド問題は戦場では解決しえないという自覚は、過去十年のあいだに、双方のあいだに広がり、それに促されて代案をめぐる公的な議論が行われてきた。

それだけに、2011年6月のトルコ議会選のころに交渉が突然断たれたせいで、歴史的な機会は失われてしまったのだと考える根拠は、十分にある。2012年9月にテレビ上のインタビューでエルドアンは、対話が終わっていることを認めた。「会談は終わりにした。コミュニケーションが不誠実なものだったからだ。そのことが表面化したので「終わりにしよう」と言ったのだ。それが望んだ結果であろうが、あるまいがね」と、かれは語った(Milliyet紙、2012年9月27日)。

トルコ政府による対話中止の決定は、クルド側に不満を残した。クルドの若いジャーナリストで、トルコ南東のクルド地域での繰り返される人権侵害を記録した後に二年間投獄されていた、ハムディエ・チフチ(Hamdiye Çiftçi)は、こう語る。「クルド人は長いあいだ、〔解決への〕偽りのない一歩を待ち望んできました。2011年の総選挙のあいだ、和平への期待はとくに高まっていました。しかし政府は、対話と平和のために何もすることはなく、その本性をさらけ出したのです。誰もかれらを信じません」。チフチや他の人々は、エルドアンが会談をやめたのは選挙結果のためだと思っている。BDPから36人の候補者が先例のない勝利を収めたことで、抑圧と政治的周縁化によりクルド人の運動を掘り崩そうとする政府の試みが無益だったことが明らかになった。その結果を認めまいとして、政府は警察行動に踏みきり、交渉に関連すると思われる人々を捕えていった。クルド人被拘留者8000人のうち約半数が、2011年なかば以降に逮捕されている。

同時に、対PKKの軍事作戦がエスカレートしている。PKK指揮官カラユランは「フィラット・ニュース」(Fırat News Agency)とのインタビューでこう語った。「われわれはトルコの代表団とのあいだに合意議定書を取り交わした。エルドアンはそれを認めねばならない。だがかれはそうしない。そのかわりに、自分たちは力があり、われわれを武力でねじ伏せられると信じて、あらゆるところで攻撃を強めている。われわれは冬に深い痛手を被ったが、春には組織を立て直して、夏には攻勢に移った。」

国際危機グループ(International Crisis Group)によれば、いまやトルコ南東部での戦闘は、1990年代以来もっとも深刻なレベルにまで達している。PKKはその軍事行動を強めた。クルドの弱体化が平和への道ではないことを、そして、過去十年来の和平交渉にもかかわらず、トルコ政府が南東部の「平定」に明白に失敗したということを、はっきりさせるためだ。それまでの戦闘は人里離れた山間部に限定されていたが、いまやPKKは、クルド地域の都市部でのトルコ兵や軍事施設への攻撃を強めている。PKKはまた、同地域における与党AKPの役員や、トルコ国家のために働いていると見なされる教師などを、拘留している。

明らかにPKKの動きは、シリアのクルド人たちの最近の成果によって、拍車がかかっている。国境の向こうの同胞を気にかけることなく、トルコ国内のクルド人のために、アンカラとの対決に集中することにしたのだ。予測がつくことだが、いまトルコ政府は、PKKがアサド政権を支援していると避難している。2011年3月からのシリア蜂起以前にねんごろな関係にあったのは、アンカラとダマスカスだった、ということは無視しながら。現在のシリア大統領の父であるハーフィズ・アル=アサドは、1980年代から1998年まで、PKKの戦士が、またしたがってオジャランが、シリア領土内に駐留することを許していた。しかし1998年、アンカラの圧力で、ダマスカスはこのPKK指揮官を追放した。現在、PKKとそのシリアにおける姉妹組織であるPYDは、トルコに支援されたシリアの反体制派とたたかっている。シリアの反体制派は、アサド後のシリアにおけるクルド人の権利に十分な保証を与えなかった。

いくつかの点で今回のハンストは、この新たなクルド抵抗運動の拡大であり、またクルド問題の包括的解決の必要が切迫したものとなっていることの反映でもある。このハンストは、そのような解決のために不可欠の主要な諸要求に注目を向かわせることで、トルコ国内の政治状況の停滞を打破し、政府を交渉のテーブルに戻させようとしている。クルド人市民の基本権にたいする政府の拒絶にたいして、トルコ世論の関心がふたたび集まった点において、ハンスト参加者たちは重要な成功を収めたと言える。

エルドアン首相はこの秋に、「必要があれば」国とPKKの交渉を準備するかもしれないとほのめかした。とはいえ、2005年ディヤルバクルでの「政治的解決の必要を認識している」という誇張された演説から、2009年に提示された、いまや消えかかっている「民主的開放」(demokratik açılım süreci)まで、エルドアンが過去にしてきたのは、期待を高めてから落とすことでしかなかった。「民主的通路」は解決への道をもたらすとされていたが、かれの誓約にもかかわらず、新たな憲法草案へと進展することはなかった。それを踏まえれば、そのようなほのめかしには信用ならない。しかも、クルド語の教育もクルド人の自治も認めないと、首相はすでに発言している。それではどんな「解決」がかれの念頭にあるのかと、クルドは首をかしげさせられるままだ。

後半へ)

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